藤原行成(ふじわらのゆきなり)|渡辺大知
生年 | 972年 |
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没年 | 1028年 |
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氏族 | 藤原北家世尊寺家 |
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官位 | 正二位・権大納言 |
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職業 | 公卿 |
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法名 | なし |
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別名 | 一条朝四納言、三蹟 |
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藤原行成の家族構成
父 | 藤原義孝 |
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母 | 源保光の娘 |
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兄弟 | 行成、三松俊興室、基忠 |
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配偶者 | 源泰清の娘(姉)、源泰清の娘(妹)、橘為政の娘 |
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子 | 薬助、実経、良経、源顕基室、源経頼室、藤原長家室、行経、永親 |
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藤原行成の概要
藤原行成の逸話
- 藤原実方と口論になった際の冷静な対応を一条天皇に評価されて蔵人頭に抜擢された
- 小野道風・藤原佐理と共に、三蹟の一人に数えられた
藤原行成の生涯
- 972年、生誕。祖父である摂政・藤原伊尹の養子となるが伊尹は養子になった同年に死去する
- 974年、父・藤原義孝が急死したため、以後は外祖父・源保光の庇護を受ける
- 982年、桃園邸で元服する
- 984年、外戚関係にあたる東宮・師貞親王の年爵によって従五位下に叙任される
- 985年、侍従に任じられる
- 986年、昇殿を許される
- 987年、従五位上に叙任される
- 991年、正五位下に叙任される
- 993年、従四位下に叙任される
- 995年、蔵人頭権左中弁・源俊賢が参議に昇進し、後任として蔵人頭に任じられる
- 996年、権左中弁、続いて正左中弁に任官される
- 998年、これまでの働きぶりで一条天皇から従四位上に叙任される
- 同年、右大弁に任官される
- 1000年、藤原道長の長女・藤原彰子の皇后冊立に尽力する
- 同年、正四位下に叙任される
- 1001年、敦康親王家の別当に任じられる
- 同年、参議に任じられ公卿に列し、更に従三位に叙任される
- 1003年、正三位に叙任される
- 1005年、左大弁となる
- 同年、内裏が焼失し、源俊賢らと共に造宮行事を担う
- 1007年、内裏の造宮行事の功績で従二位に叙任される
- 1009年、権中納言に任じられる
- 1011年、重病に倒れ譲位を決意した一条天皇から第一皇子・敦康親王を東宮に立てるように諮問を受けるが第二皇子・敦成親王を立てるよう進言する
- 同年、三条天皇の即位式には宣命使を務め、その際の振る舞いを藤原道長に称賛される
- 1013年、石清水行幸行事の功績で正二位へ叙任される
- 1016年、藤原道長の外孫にあたる後一条天皇への即位式の諸事を定めた際に、四納言らと共に自ら式の作成や過去の記録の抄出を行い、道長を感動させる
- 1017年、藤原道長が摂政左大臣を辞任し、その長男・藤原頼通が摂政となると頼通の側近的な立場となる
- 1020年、権大納言に昇進する
- 1027年、年初より体調を崩し始め年末に死去する。享年56
光る君への藤原行成