片倉 景綱(かたくら かげつな)
出典:Wikipedia:片倉小十郎景綱像(仙台市博物館所蔵)
生年 | 1557年 |
---|
没年 | 1615年 |
---|
主君 | 伊達輝宗→伊達政宗 |
---|
拠点・知行 | 陸奥白石城 |
---|
官位・役職 | 従五位下・備中守 |
---|
幼名 | |
---|
法名 | |
---|
別名 | 小十郎 |
---|
片倉景綱の家族構成
父 | 片倉景重 |
---|
母 | 本澤直子 |
---|
兄弟 | 重継、景綱 |
---|
正室 | 矢内重定の娘 |
---|
側室 | 上原五兵衛の娘 |
---|
子 | 重長、友綱、行綱 |
---|
親族 | |
---|
片倉景綱の逸話
- 知勇兼備の名将ながら笛の名手でもあった
- 主君・政宗への忠誠心は非常に高く、妻が長男・重長を懐妊した際には当時政宗がまだ子を授かっていなかったため不忠に思い、実子を殺害しようとしたが政宗の説得により思い留まった
- 伊達家中での人望も厚く、死の際には慕う家臣6名が殉死している
片倉景綱の生涯
- 1557年、生誕
- 1567年、主君・伊達輝宗に嫡男・伊達政宗が産まれると、姉・喜多が政宗の乳母となる
- 1572年頃、伊達家の城下米沢で大火事が起きた際の活躍で、伊達輝宗の徒小姓として仕えるようになる
- 1575年、遠藤基信の推挙で伊達政宗の近侍となる
- 1582年、伊達輝宗の相馬家攻めで、伊達政宗が蘆名盛隆から援軍を取り付ける交渉をして成功際に盛隆から政宗の腹心として認識される
- 1585年、佐竹家・南奥諸大名の連合軍との人取橋の戦いに従軍する
- 1588年、郡山合戦に従軍する
- 1589年、蘆名義広との摺上原の戦いに従軍する
- 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に秀吉方へ参陣するように進言し、伊達政宗に小田原参陣を決意させる
- 1602年、主君・伊達政宗が仙台藩主となると、白石城1万3000石の城主を賜るが病に倒れ、亘理領内の神宮寺村で療養する
- 1614年、大坂冬の陣では病のため、伊達政宗に従うことができず、嫡男・片倉重長を従軍させる
- 1615年、病のため死去する。享年59