伊達 政宗(だて まさむね)

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    伊達政宗の肖像画
    出典:Wikipedia:伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆、江戸中期頃)数少ない隻眼で描かれた肖像画。
    生年1567年
    没年1636年
    主君陸奥伊達家第17代当主
    拠点・知行出羽米沢城
    官位・役職従五位下・左京大夫、侍従、越前守、従四位下・右近衛権少将、陸奥守、正四位下・参議、従三位・権中納言
    幼名梵天丸
    法名
    別名藤次郎、独眼竜

    伊達政宗の家族構成

    伊達輝宗
    義姫(保春院。最上義守の娘)
    兄弟政宗、小次郎、秀雄
    正室愛姫(陽徳院。田村清顕の娘)
    側室新造の方(飯坂宗康の娘)、飯坂の局(飯坂宗康の娘)、睦子(於山の方。四保宗義の娘)、宏(阿茶の局、荘厳院。柴田信恒の娘)、勝子(於勝の方。多田吉広の娘)、妙子(本寿院。村上政重の娘)
    秀宗、忠宗、宗清、宗泰、宗綱、宗信、宗高、竹松丸、宗実、宗勝、亘理宗根
    親族

    伊達政宗の逸話

    • 幼少のころに天然痘に罹り、右目を失明しているが、後天的なものなので肖像画等では両眼を描くように遺言している
    • 独眼竜という異名は中国後唐の李克用に由来する
    • ネズミの入った味噌汁を食して死にかけたことがある

    伊達政宗の生涯

    • 1567年、米山城もしくは館山城で生誕。
    • 1577年、元服。伊達藤次郎政宗と名乗る。
    • 1579年、仙道・三春城主田村清顕の娘である愛姫を正室に迎え入れる。
    • 1581年、伊具郡に出陣し相馬氏との合戦で初陣を飾る。
    • 1584年、父である輝宗が隠居し家督を相続する。
    • 1585年、蘆名領の檜原に攻め入ると続いて大家領の小手森城に進軍する。
    • 1586年、人取橋の戦い。輝宗が二本松城主である畠山義継に拉致され、追跡するが吉継もろとも鉄砲で殺害することになる。初七日の後、弔い合戦として二本松城へ進軍し佐竹氏率いる南奥州連合軍と人取橋で戦う。兵数に劣る伊達軍は敗走するが、殿を務めた鬼庭左月斎の奮戦により窮地を脱した。
    • 同年、再度二本松城へ進軍し包囲する。相馬義胤の仲介で蘆名氏と講和を結ぶ。
    • 1587年、豊臣秀吉が関東と奥羽の大名に惣無事令を発令する。だが聞き流して合戦を継続する。
    • 1588年、大崎合戦。大崎氏の内紛に介入するが黒川晴氏の裏切りもあって敗北。さらに伯父にあたる最上義光も大崎氏側に加わり、各地の所領を落とされる。
    • 同年、郡山合戦。大崎合戦につけ込んで蘆名氏と相馬氏が伊達領南部へ進軍してきて苗代田城を落とされる。
    • 同年、田村仕置。蘆名氏と相馬氏とのあいだに講和が成立し愛姫の実家である田村領を確保する。
    • 1589年、摺上原の戦い。会津の蘆名義広を摺上原で撃破する。
    • 1590年、小田原攻め。豊臣配下の浅野長政から出陣を促され小田原へ向かう。
    • 1591年、葛西大崎一揆を蒲生氏郷とともに平定するが自身が一揆を焚き付けた事が明るみに出る。上洛し秀吉に弁明するが72万石から58万石へ減封される。
    • この頃秀吉から羽柴姓を与えられ、侍従へ任官される。本拠である岩出山城が大崎氏本拠であったので羽柴大崎侍従と呼ばれる。
    • 1593年、朝鮮出兵・文禄の役。朝鮮南部沿岸の築城の際に精力的に参加する。
    • 1599年、秀吉の死後、長女である五郎八姫と家康の六男松平忠輝を婚約させる。
    • 1600年、関ヶ原の戦い。東軍に所属し最上氏から救援要請を受けた際に叔父である留守政景を派遣する。
    • 1601年、家康の許可を得て居城を仙台に移し仙台藩を開く。
    • 1607年、嫡男忠宗と家康の五女である一姫が婚約する。
    • 1610年、一姫が亡くなったため、忠宗と家康の外孫である振姫を婚約させる。
    • 1613年、慶長遣欧使節を派遣する。
    • 1614年、大坂冬の陣。大和口方面軍として参戦する。
    • 1615年、大坂夏の陣・道明寺の戦い。後藤基次らと戦う。
    • 1620年、和霊騒動。宇和島藩主となった庶長子である秀宗と幕府も巻き込んだ対立を起こすが和解する。
    • 1636年、病死。享年70。
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