足利 義昭(あしかが よしあき)

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    足利義昭の肖像画
    生年1537年
    没年1597年
    主君室町幕府第15代征夷大将軍
    拠点・知行山城槇島
    官位・役職従五位下・左馬頭、参議、左近衛中将、征夷大将軍、従三位・権大納言、准三后
    幼名千歳丸
    法名覚慶、昌山道休
    別名義秋

    足利義昭の家族構成

    足利義晴
    慶寿院(近衛尚通の娘)
    兄弟義輝、義昭、周暠
    正室
    側室さこの方(赤松政秀の娘、織田信長の養女)、小宰相局(大河内家の娘)、一対局、春日局、大蔵卿局、小少将局
    義尋、一色義喬、永山義在、矢島秀行、矢島重成
    親族猶子:義演(二条晴良の子)

    足利義昭の逸話

    足利義昭の生涯

    • 1537年、生誕
    • 1540年、父・足利義晴より南都・興福寺一乗院に入室させられる
    • 1542年、伯父・近衛稙家の養子となり、興福寺・一乗院に入室し覚慶と名乗り、一乗院門跡を継ぐ修行を行う
    • 1565年、兄・足利義輝、母・慶寿院、弟・周暠が永禄の変で、三好義継や三好三人衆、松永久通に殺害されると松永久秀によって興福寺に幽閉される
    • 同年、兄・義輝の側近だった細川藤孝・一色藤長の手引きで脱走し、近江甲賀郡・和田の豪族である和田惟政の居城・和田城に入る。
    • 同年、和田で足利将軍家の当主になることを宣言し、各地の大名らに御内書を送る
    • 同年、近江・六角義賢の手引きで野洲郡矢島村へ移り、御所とする
    • 1566年、矢島御所において還俗し、義秋と名乗る
    • 同年、吉田神社の神主・吉田兼右の働きで朝廷から従五位下・左馬頭の叙位・任官を受ける
    • 同年、三好三人衆・三好長逸が矢島へ侵攻してくるが、奉公衆の奮戦で撃退する
    • 同年、長逸の襲撃や六角家が謀反のそぶりを見せたこともあり、若狭を経て越前へ移り一乗谷・安養寺に入る
    • 1568年、対抗馬である足利義栄が朝廷から将軍宣下を受ける
    • 同年、朝廷へ働きかけたことにより、朝倉義景の母が従二位に叙任される
    • 同年、秋の字を不吉に思い、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、朝倉氏の館において元服式を行い、義昭と名を改める
    • 同年、織田信長が上洛して来たので美濃・立政寺で対面し、その後信長は畿内の平定を始める
    • 同年、朝廷から将軍宣下を受けて、室町幕府の第15代将軍に就任し、従四位下、参議・左近衛中将にも昇叙・任官される。その際、信長を最大の功労者として認め、天下武勇第一と称えるとともに、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可する
    • しかし、信長が美濃へ帰京すると三好三人衆の動きが活発になり、それを警戒して将軍山城の整備を進める
    • 1569年、松永久秀が織田信長の下へ向かうとその隙に三好三人衆が義昭の滞在する本圀寺を包囲・襲撃する本圀寺の変が起きる。絶体絶命の危機に陥るが、奉公衆および、摂津・池田勝正、和田惟政、河内・三好義継らが駆けつけ、奮闘したことで撃退に成功する
    • 同年、大友宗麟に毛利元就との和睦を勧める
    • 同年、信長から殿中御掟を承認させられる
    • 同年、妹を三好義継に嫁がせる
    • 同年、二条御所が完成し移り住み、従三位権大納言に叙任される
    • 同年、織田信長は大河内城の戦いで伊勢・北畠具教・具房親子と戦うが、城を攻めきれず、信長の要請を受け北畠氏との和睦を仲介する
    • 1570年、織田信長が殿中御掟に5箇条を追加し、これを承認するがさらに厳しい内容であったため、信長に強い不満を抱く
    • 同年、朝廷に申し入れて年号を永禄から元亀へ改元させる
    • 同年、三好三人衆との間に野田城・福島城の戦いが起き、自ら織田信長・松永久秀らと共に出陣する。しかし途中で石山本願寺が三好三人衆側に付き、さらに浅井氏・朝倉氏も挙兵したため、信長らと共に京へ撤退する
    • その後、朝廷の介入もあり、公家・二条晴良を介して織田信長と朝倉義景に和睦を提案し浅井氏・延暦寺・本願寺もこれに続き信長との間に和睦が成立する
    • 1571年、豊後・大友宗麟に安芸・毛利家との和睦を命じる
    • 同年、九条家出身の養女を筒井順慶に嫁がせ、順慶を陣営に加える
    • 同年、松永久秀が三好三人衆と手を組み造反する
    • 1572年、甲斐・武田信玄に天下静謐のために行動を起こすように命じた御内書を送る
    • 同年、織田信長から異見十七ヶ条が送られるが、義昭に対して批判的な内容であり、信長との対立が深まる
    • 1573年、織田信長に対して挙兵し、朝倉義景・浅井長政・武田信玄らに御内書を送る
    • 同年、石山城・今堅田城の戦いで織田信長に敗れると三好義継と松永久秀の両名を免責し同盟を組む
    • 同年、二条御所の戦いが起きると次第に信長に追い詰められる。信長は朝廷を動かし、勅命による講和を求め、成す術のなかった義昭はこれに応じる
    • 同年、二条御所を奉公衆の三淵藤英らに預け、宇治・槇島城に入ると織田信長との講和を破棄して挙兵する
    • 信長が槇島城を包囲し、槇島城の戦いが起きると槇島一帯も焼き払い、その行いに戦慄すると講和を申し入れ息子・義尋を人質に出し降伏し、室町幕府は実質的に滅亡する
    • 同年、三好義継の居城・若江城を経て和泉・堺へ移る。堺で信長から羽柴秀吉と朝山日乗、毛利輝元から安国寺恵瓊と林就長が派遣され、信長と和解し帰京することを説得されるが固辞し交渉は決裂し、堺を出て紀伊由良・興国寺へ移る
    • 1576年、安芸・毛利輝元を頼り、興国寺を出て備後・鞆へ移り、御所を構える
    • 同年、武田勝頼と上杉謙信に対して、互いに講和するよう命じた御内書を下すと、勝頼が上杉氏や北条氏との講和を了承し、毛利輝元とも同盟を結ぶ
    • 1577年、阿波三好郡の国人・大西覚用と大西高森が吉川元春や小早川隆景に義昭の上洛に味方すると答える
    • 1578年、別所長治・荒木村重を調略により、織田信長から離反させる
    • 1579年、備前・宇喜多直家、伯耆・南条元続が織田信長の調略により、毛利輝元に対して謀反を起こす
    • 1581年、羽柴秀吉が鳥取城を攻め降伏させ、吉川経家が自刃すると吉川広家に織田信長の挙兵に備えるよう命じる
    • 1582年、本能寺の変が起き、羽柴秀吉が織田信長の死を隠したまま毛利氏と講和を行い急ぎ中国大返しで京へ向かう。信長の死を知った義昭は小早川隆景に出兵を命じるが毛利氏は講和を遵守して行動しなかった
    • 同年、山崎の戦い後、安国寺恵瓊に対し、羽柴秀吉に自身の帰洛を支援するように命じると秀吉も了承する
    • 同年、信長の死後開かれた清州会議で秀吉と柴田勝家の対立が激化すると勝家の支援を表明する。勝家が秀吉に対して挙兵したのを知ると毛利輝元に出兵するように命じるが、吉川元春と小早川隆景が会見し、毛利氏は様子見をすることを選択する
    • 同年、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、結果的に秀吉を敵に回すことになる
    • 1584年、島津義久・龍造寺政家・宗像氏貞に対して、帰京に協力するように命じ、輝元が仲介する
    • 1586年、豊臣秀吉の九州攻めが始まると一色昭秀を薩摩・島津義久のもとに派遣して、秀吉との和睦を勧める
    • 1587年、再度一色昭秀を派遣し、島津義久に重ねて和睦を勧め、結果義久は和睦を受け入れ、秀吉に降伏する
    • 同年、秀吉による島津氏討伐協力の功賞として、息子・足利義尋が興福寺の大乗院門跡となることが決定する
    • 同年、毛利氏の兵に護衛されながら15年ぶりに京都へ入る
    • 1588年、豊臣秀吉と共に朝廷へ出仕し、将軍職を朝廷へ返上し室町幕府は名実ともに滅亡する。その後出家し、昌山道休と名乗る
    • 1592年、文禄の役では豊臣秀吉の要請で武具などをそろえて出陣の準備を行い、秀吉が肥前・名護屋城に到着すると、城の外郭に布陣する
    • 1593年、豊臣秀吉が大阪へ帰還すると同時に京へ帰還する
    • 1597年、病に倒れ回復しないまま大阪で病死する。享年61
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