明智 光秀(あけち みつひで)

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    明智光秀の肖像画
    出典:Wikipedia:明智光秀像(本徳寺蔵)
    生年1516年または1528年
    没年1582年
    主君斎藤道三→朝倉義景→足利義輝→足利義昭→織田信長
    拠点・知行近江坂本城
    官位・役職従五位下・日向守
    幼名彦太郎
    法名咲庵
    別名惟任光秀、十兵衛、キンカ頭

    明智光秀の家族構成

    明智光綱?
    養父:明智光安または明智頼明
    お牧の方(武田信豊の娘)
    兄弟光秀、信教、進士貞連(作左衛門)、康秀、定明、定衡
    正室煕子(妻木範煕の娘)
    側室
    光慶、光泰、乙寿丸
    親族

    明智光秀の逸話

    明智光秀の生涯

    • 1516年もしくは1528年、生誕
    • 1535年頃、土岐頼純の側近として仕える
    • 1556年、仕えていた斎藤道三が長良川の戦いで息子・斎藤義龍に敗れると義龍に明智城が攻められ、一族が離散する。自身は越前・朝倉義景を頼り、10年間仕える
    • 1568年、第15代将軍足利義昭の上洛に加わる
    • 1569年、三好三人衆が足利義昭の滞在する本圀寺を急襲する本圀寺の変が起き、防戦に加わる
    • 同年、羽柴秀吉・丹羽長秀・中川重政と共に織田信長支配下の京都とその周辺の政務を担う
    • 1570年、織田信長は足利義昭の権力を制限する殿中御掟を通告すると、義昭は承諾の黒印を袖に押し、朝廷へ提出される
    • この頃、幕府直参の奉公衆となっており、上京に居を構える
    • 同年、金ヶ崎の戦いで織田信長が浅井長政の裏切りで窮地に陥り撤退する際に羽柴秀吉と共に殿を務め、撤退を成功させる
    • 同年、丹羽長秀と共に若狭へ派遣されると、武藤友益から人質を取り、城を壊して帰京し、この頃、足利義昭から山城久世荘を所領として与えられる
    • 同年、姉川の戦い及び志賀の陣にも従軍する
    • 1571年、石山本願寺が三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に挙兵すると織田信長・足利義昭と共に摂津へ進軍する
    • 同年、信長の比叡山焼き討ちで戦功を挙げ、近江滋賀郡を与えられると坂本城の築城を開始する
    • 同年、義昭に暇願いを出すものの、受け入れられなかった
    • 1573年、将軍・足利義昭が甲斐・武田信玄を頼り挙兵すると、義昭と決別し織田信長の家臣として参戦する
    • 同年、再度義昭が槇島城で挙兵するが敗れ降伏すると室町幕府は事実上滅亡し、伊勢貞興・諏訪盛直ら旧幕臣を家臣とする。
    • 同年、坂本城が完成し居城とする
    • 1575年、惟任の姓を与えられ、また従五位下日向守にも叙任され惟任日向守となる
    • 1575年、高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆攻めに従軍しその後、丹波攻略を命じられるが八上城主・波多野秀治の裏切りもあり、敗北し撤退する
    • 1576年、石山本願寺との間に起こった天王寺の戦いに従軍するが、司令官・塙直政を失い、絶体絶命の危機に陥るが、織田信長の救援により危機を逃れる
    • 同年、正室の煕子が坂本城で病死する
    • 1577年、雑賀攻めに従軍する
    • 同年、松永久秀との信貴山城の戦いにも従軍し、城を落とす
    • 1578年、氷上郡の赤井直正が病死すると丹波に進軍し、園部城の荒木氏綱を降伏させる
    • 同年、羽柴秀吉の毛利攻めに援軍として播磨へ派遣され神吉城攻めに参戦する
    • 同年、織田信長を裏切った摂津・荒木村重との間に起きた有岡城の戦いに従軍する
    • 1579年、丹波国人では少数派の親織田派・小畠永明が討死すると永明の遺児に明智の名字を与えて、小畠一族に将来は絶対に永明の子を当主に立てることを命じる
    • 同年、黒井城を攻め落とし、ついに丹波を平定するとすぐに細川藤孝と協力し、丹後も平定する
    • 1580年、丹波・丹後を平定した功績により、織田信長から感状を送られ、丹波29万石を加増されると、さらに本願寺戦で討死した塙直政の南山城も与えられる。亀山城・周山城の築城を始め、横山城を改築して福智山城に名を改める。黒井城を増築し家老・斎藤利三を入れ、福智山城には重臣・明智秀満を入れる
    • 1581年、安土・左義長の爆竹及び道具の準備を任されそれに続く京都御馬揃えの責任者も務める
    • 同年、それまで織田家に無かった軍法を定めた明智家法をしたため、その後書きに織田信長への感謝の文を記す
    • 1582年、徳川家康をもてなしていたが任を解かれ羽柴秀吉の毛利攻めの救援を命じられ出陣する。その途中、亀山城内もしくは柴野付近で重臣達に織田信長討伐を宣言する。
    • 信長の休む本能寺を急襲・包囲すると火を放ち、信長を自害に追い込む。さらに二条新御所にいた信長の嫡男・織田信忠と従兄弟の斎藤利治も討ち倒す
    • 京都を抑えたものの、足場を固める間もなく本能寺の変を知り、毛利輝元と和睦し急遽戻った羽柴秀吉との間に山崎の戦いが起きる
    • 兵数で勝る羽柴軍に敗れ、坂本城を目指す道中で落ち武者狩りで殺害されたとも、百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害したとも言われる。享年55もしくは67
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