九州の王
大友 宗麟(おおとも そうりん)
生年 | 1530年 |
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没年 | 1587年 |
主君 | 豊後大友家第21代当主 |
拠点・知行 | 豊後 |
官位・役職 | 正四位下・左近衛少将、左衛門督 |
幼名 | 塩法師丸 |
法名 | 瑞峯休庵宗麟、宗滴、円斎、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎 |
別名 | 義鎮、五郎、新太郎、ドン・フランシスコ、豊後の王、九州の王 |
家族構成
父 | 大友義鑑 |
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母 | 坊城家の娘 |
兄弟 | 宗麟、大内義長、塩市丸、隼人 |
正室 | 宝岸寺殿(一色義清の娘) 継室:奈多夫人(奈多鑑基の娘) |
側室 | 一萬田夫人(一萬田親実の娘)など |
子 | 義統、親家、親盛 |
親族 |
逸話
- 幼少期は武芸を好み、学問が嫌いな気性の荒い少年だった
- 書画・茶道・能・蹴鞠などに通じ、狩野松栄・永徳など文化人を豊後に招いている
- ルイス・フロイスからは「日本に在る王侯中最も思慮あり、聡明叡智の人として知られたり」と評される
生涯
- 1530年、生誕
- 1540年、元服すると、第12代将軍・足利義晴から1字与えられ義鎮と名乗る
- 1550年、父・大友義鑑が義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと考え義鎮の廃嫡を計画するが、義鎮派重臣がその動きを察知し大友家のお家騒動・二階崩れの変が起きる。塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷しそのまま死去する。これにより家督を相続し大友家第21位代目当主となる
- 1551年、周防・大内義隆が家臣・陶隆房の謀反により自刃すると陶隆房の申し出により実弟・大内義長を大内家の新当主として送り込む
- 1553年、二階崩れの変と領内にフランシスコ・ザビエルらカトリックの宣教師に布教を許可したことが原因で一萬田鑑相・宗像鑑久兄弟・服部右京亮らに謀反を起こされる
- 1554年、肥前の守護に任じられる
- 同年、第13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上し、足利将軍家との結びつきの強化に努める
- 1556年、小原鑑元が謀反を起こし姓氏対立事件が起き、鑑元は南関城に籠城するが討伐する
- 1557年、実弟・大内義長が毛利元就に自害に追い込まれ、大内氏が滅亡し長門・周防地方への影響力を失う
- この頃に、豊後府内・大友館から丹生島城に本拠地を移す
- 1559年、第13代将軍・足利義輝への多大な献金が実り、豊前・筑前両国の守護職に、続いて九州探題に任じられる。さらに大内氏の家督とそれに伴い周防・長門の守護の資格も得る
- 1560年、、左衛門督に任じられる
- 1562年、毛利元就に門司城の戦いで敗れる
- 同年、出家し、休庵宗麟と名乗る
- 1563年、将軍・足利義輝の相伴衆に任じられる
- 1564年、将軍・足利義輝に毛利元就との和睦の調停を依頼する
- 1565年、将軍・足利義輝が永禄の変により死去すると、毛利元就は尼子氏を滅ぼし、再度北九州への侵攻を始め、和睦は反故になる
- 1567年、豊前・筑前の大友方の国人が毛利元就の謀略により挙兵し、更に大友重臣・高橋鑑種も加わる事態となるが、は立花道雪らに命じて平定させる
- 1569年、肥前・龍造寺隆信を制するために、軍を率いて筑後・肥前へ進軍するが、毛利氏が筑前国に侵攻してきたため、急いで帰還する
- 同年、大内輝弘の乱が起きると輝弘に水軍衆の若林鎮興を援軍に送り、毛利元就を九州から撤退させる
- 1570年、再度肥前へ侵攻するが今山の戦いで龍造寺隆信に敗れ弟・大友親貞が討死する
- 1576年、嫡男・大友義統に家督を譲り、隠居する
- 1577年、薩摩・島津義久が日向へ進軍してきたため、自ら出陣し迎え撃つ
- 1578年、宣教師・フランシスコ・カブラルから洗礼を受け、ドン・フランシスコの洗礼名を名乗り正式にキリスト教徒となる
- 同年、耳川の戦いで島津義久に大敗し、多くの重臣を失う
- 1579年、この頃から蒲池氏・草野氏・黒木氏などが大友家から離れていく
- 1582年、本能寺の変で織田信長が死去したことで、信長に依頼していた島津氏との和睦が頓挫する
- 1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信がの島津家久に敗北し討ち取られると立花道雪に命じ筑後へ侵攻し大半を奪い返す
- 1585年、重臣・立花道雪が病死する
- 1586年、島津義久が侵攻し岩屋城の戦いが起きる。高橋紹運・立花宗茂が奮戦するものの、城が落ち紹運は自害する
- 同年、大阪城で豊臣秀吉に謁見し、傘下に入ることで軍事的支援を得ることに成功する
- 同年、島津義久が大友領へ侵攻し豊薩合戦が起きると仙石秀久・十河存保・長宗我部元親が援軍として送り込まれるが、戸次川の戦いで家久に敗北する。この時、自身は丹生島城に籠城し大砲・フランキ砲を駆使して城を守っていたが島津氏の勢いは止められず大友家は滅亡の危機に追い込まれる
- 1587年、豊臣秀吉の九州攻めが始まり、根白坂の戦いで秀吉が島津義久を破ると、窮地に陥っていた大友家は救われる
- しかし、戦況が好転していく最中に病に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後・久見で病死する。享年58
雷神
立花 道雪(たちばな どうせつ)
生年 | 1513年 |
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没年 | 1585年 |
主君 | 大友義鑑→大友宗麟→大友義統 |
拠点・知行 | 筑前立花山城 |
官位・役職 | 左衛門大夫、紀伊守、伯耆守、丹後守 |
幼名 | 八幡丸 |
法名 | 麟伯軒道雪 |
別名 | 戸次孫次郎、親守、親廉、鑑連、孫次郎、左衛門大夫、伯耆守、紀伊入道、丹後入道、摂津入道、鬼道雪、雷神、九州の軍神、弓矢八幡、摩利支天の化身 |
家族構成
父 | 戸次親家 |
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母 | 正光院(由布惟常の娘) 継母:養孝院(臼杵長景の娘) |
兄弟 | 某、道雪、戸次鑑方、戸次親行 |
正室 | 波津(白山院。入田親誠の娘) 継室:浦辺衆田原家の娘 継室:仁志(宝樹院。問註所鑑豊の娘) |
側室 | 色姫(竹龍院。宗像正氏の娘) |
子 | 養子:宗茂、戸次鎮連、道清、安武方清 |
親族 |
逸話
- 道雪の武勇を伝え聞いた甲斐・武田信玄が対面を望んでいた
- 主君・宗麟が横暴な振る舞いをすると躊躇いなく諫めた
- 戦功のない家臣に対しても配慮を欠かさず、激励したため、家臣達は道雪に命を惜しまず尽くした
- 戦場で病死した道雪を家臣達が運び出す際、敵方だった島津・龍造寺・秋月の諸兵は名将の死を悼み、誰ひとりとして追撃しなかった
生涯
- 1513年、生誕
- 1526年、病弱な父・戸次親家に代わり老家臣3人を補佐につけ大内領・豊前馬ヶ岳城を攻め、3000以上の兵力差を跳ね返して勝利し、初陣を飾る
- 同年、父・戸次親家が死去すると家督を相続し、親守、親廉と名乗るが、大友義鑑に仕えると後に偏諱を賜って鑑連に名を改める
- 1535年、肥後国人の反乱がおきると出陣し、車返の戦いで奮戦し反乱を鎮圧する
- 1546年、秋月文種が大友義鑑に謀反を起こすと義鑑の命令で佐伯惟教・臼杵鑑速・吉弘鑑理と共に筑前古処山城へ進軍し鎮圧させる
- 1550年、大友義鑑が嫡男・大友義鎮を廃嫡にし、三男・塩市丸を後継者としようとしたことで反発した義鎮派の家臣・田口蔵人介と津久見美作守が義鑑を襲撃するという二階崩れの変が起き、義鑑は襲撃で受けた傷が原因で死去する。この際、義鎮を支持し、義鎮の家督相続に尽力する
- 同年、阿蘇氏を頼って肥後に逃亡した塩市丸派の入田親誠を追撃し、続いて菊池義武を攻め、隈本城を落とす
- 1553年、異母弟・戸次鑑方の子・戸次鎮連を養子に迎え戸次氏の家督を譲り隠居する
- 1554年、相良氏へ護送中の菊池義武を豊後直入郡木原で自害に追い込む
- 1556年、小原鑑元・本庄新左衛門尉統綱・中村新兵衛長直・賀来紀伊守惟重が大友宗麟に対して謀反を起こした姓氏対立事件が起きると肥後・豊後へ向かい討伐する
- 1557年、毛利元就と通じた秋月文種を自害に追い込む
- 同年、大友宗麟の異母弟・大内義長が元就に討たれると、旧大内領の確保に奔走する
- 1560年、筑前・宗像氏貞の許斐山城・白山城・蔦ヶ嶽城に侵攻する
- 1561年、これまでの功績で大友宗麟の補佐役である加判衆と筑後国方分・守護代に任じられる
- 1562年、大友宗麟は尼子義久の要請で豊前出兵を家臣団に命じ、これを受け出兵する。香春岳城を攻めると原田親種を追い払い、城将・千手宗元を降伏させる。続いて門司城へ進軍するが毛利勢の小原隆言や桑原龍秋らの奮闘で城は落とせず退却する。他の大友軍が松山城奪還を目指し城を包囲している間に再度門司城へ進軍し、城代・冷泉元豊・赤川元徳・桂元親三将を討ち取る戦果を挙げる
- 同年、大友宗麟が出家すると続いて出家し、麟伯軒道雪と名乗る
- 1563年、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着するとにらみ合いとなる
- 同年、大友家と毛利家の全面戦争を憂いた第13代将軍・足利義輝は・久我通堅・聖護院道増・大館晴光を通じて道雪に毛利家との休戦を求める御内書を送る
- 1564年、前年の将軍・足利義輝の仲介で毛利家との休戦が成立する
- 1565年、反乱を起こした立花鑑載の立花山城を吉弘鑑理と共に攻める
- 1567年、かつて討伐した秋月文種の子・秋月種実が毛利家の援助を受け秋月家再興を目指し挙兵すると、大友家重臣・高橋鑑種が岩屋城でこれに呼応し、更に筑後国衆・筑紫広門も同調する。こうした動きに対して大友宗麟の命令で秋月種実・高橋鑑種の討伐を開始する
- 宝満城を攻め落とすと、臼杵鑑速が岩屋城を、斎藤鎮実が筑紫広門を攻め落とすなど有利に戦局を進める
- 秋月種実との戦いでは自ら陣頭に立って奮戦するも、激しい抵抗に遭い、休松の戦いでは夜襲を受け同士討ちまで発生する。夜襲は予測しており冷静に対処したが現場の混乱は大きく撤退せざるを得なくなり、叔父・戸次親久をはじめとする多くの武将を失う
- 1568年、大友方の苦戦を見た国衆の離反が相次ぐ中、戦局の好転を目指し再び叛旗を翻した、立花山城の奪還を目指して城を包囲する。立花鑑載方の野田右衛門大夫を調略し城を落とし、鑑載は城を脱出するが自害する
- その後、高橋鑑種をはじめとする筑前の反大友勢力を一掃する
- 同年、筑前が落ち着くと大友家のために尽くして死去した問註所鑑豊の娘・仁志姫を継室に迎える
- 1569年、龍造寺討伐に向かい、江上武種の守る勢福寺城を攻め落とし進軍を続けるが、龍造寺隆信の要請で立花山城奪還を目指して吉川元春・小早川隆景率いる毛利軍が筑前に侵攻し、城は奪われる
- 立花山城の再奪還を目指し、毛利家との間に多々良浜の戦いが起きると自ら陣頭に立ち、様々な戦法を駆使して毛利方の主力・小早川勢を撃破する
- 同年、主君・大友宗麟が大内輝弘を周防に送り込み、大内氏再興を図って大内輝弘の乱が起きる。また山中幸盛が尼子氏再興を目指して隠岐から出雲へ進軍し、毛利家は戦線の維持が困難になり撤退する
- 1570年、再度龍造寺隆信討伐のため佐賀城を包囲する間に龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦し、この戦いで記録上初めて輿に乗って戦う
- 1571年、これまで大友軍の主力として戦った功績で筑前守護代に任じられ、立花山城主となる
- 1575年、戸次氏の家督を継いでいた甥・戸次鎮連の子・戸次統連に立花氏の家督を譲るように迫られるが、これを拒絶して重臣・薦野増時を養子に迎えようとする。しかし増時に辞退されたため、娘・立花誾千代に家督を譲り、立花山城主する
- 1578年、大友宗麟は島津家討伐を図り始めるがこれに反対する。しかし宗麟は日向へ侵攻し耳川の戦いが島津軍との間に起き、大友軍は大敗する
- 1579年、宗像氏・麻生氏・原田氏の反乱を抑え込む
- 1580年、龍造寺家の筑前遠征により立花山城が危機にさらされると筑紫広門の仲介により龍造寺家と和睦する
- 1584年、沖田畷の戦いで島津家に龍造寺家が敗北すると大友家の勢力回復に務めて、高牟礼城・城島城・谷川城・辺春城・兼松城・山崎城を次々に降伏もしくは攻め落とした
- 1585年、高良山の陣中で病に罹り、行動を共にしていた高橋紹運の懸命な看病の甲斐もなく病死する。享年73
風神
高橋 紹運(たかはし じょううん)
生年 | 1548年 |
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没年 | 1586年 |
主君 | 大友宗麟→大友義統 |
拠点・知行 | 筑前岩屋城 |
官位・役職 | 主膳正 |
幼名 | 千寿丸 |
法名 | 紹運 |
別名 | 吉弘弥八郎、吉弘鎮理、高橋鎮種、弥七郎、三河入道、主膳兵衛、主膳入道、乱世の華、風神、戦神の化身、弓矢八幡、摩利支天の化身 |
家族構成
父 | 吉弘鎮理 |
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母 | 貞善院義誉静音(大友義鑑の娘) |
兄弟 | 吉弘鎮信、紹運 |
正室 | 宋雲院(斎藤鎮実の妹) |
側室 | 松尾殿(萩尾大学の娘) |
子 | 立花宗茂、統増、市郎丸、某 |
親族 |
逸話
- ルイス・フロイスから「希代の名将」と絶賛される
- 息子・統虎が道雪の養子になる際に「道雪殿を実の父と思って慕うように」と諭し、更に名刀・備前長光を与え「道雪殿とわしが争うことになったならこれでわしを討て」と言い聞かせた
生涯
西国無双
立花 宗茂(たちばな むねしげ)
生年 | 1567年 |
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没年 | 1643年 |
主君 | 大友宗麟→大友義統→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光 |
拠点・知行 | 筑後柳川10万9,200石 |
官位・役職 | 従五位下・侍従、従四位下・飛騨守 |
幼名 | 吉弘千熊丸 |
法名 | 立斎 |
別名 | 高橋弥七郎、高橋統虎、戸次統虎、統虎、鎮虎、宗虎、正成、親成、政高、尚政、俊正、経正、信正、弥七郎、立左、左近将監、羽柴柳河左近侍従、飛騨守、立飛州、飛弾入道、宗茂入道、西国無双、西国一の弓取、九州の逸物、九州の鶚鷹、鬼将軍、武神、飛将軍、常勝将軍 |
家族構成
父 | 高橋紹運 養父:立花道雪 |
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母 | 宋雲院(斎藤鎮実の妹) |
兄弟 | 宗茂、直次、甲斐、於千代、嘉也、市郎丸、某 |
正室 | 誾千代(立花道雪の娘) 継室:八千代(矢島秀行の娘)、菊子(葉室頼宣の娘) |
側室 | |
子 | 養子:忠茂(立花直次の子)、嘉也 |
親族 |
逸話
- 豊臣秀吉からその武勇を「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評された
- 剣術と弓術の免許皆伝を持ち、居合術を開祖しながら、文化人としても優れており、連歌・茶道・書道・香道・蹴鞠などに長けていた