服部 半蔵(はっとり はんぞう)

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    服部半蔵の肖像画
    出典:Wikipedia
    生年1542年
    没年1597年
    主君徳川家康
    拠点・知行遠江
    官位・役職石見守
    幼名
    法名
    別名正成、弥太郎、半三、鬼半蔵

    服部半蔵の家族構成

    服部保長
    兄弟保元、保俊、保正、勘十郎、久太郎、半蔵、正刻
    正室長坂信政の娘
    側室
    正就、正重、正廣、康成
    親族

    服部半蔵の逸話

    • 服部家は松平家の譜代家臣の家柄
    • 徳川十六神将のひとり
    • 本人は忍者ではない。また、伊賀忍者の頭領でもないが、忍者を思わせる戦闘術の使い手であった
    • 同じ槍の名手として、よく渡辺守綱の引き合いに出される
    • 父、保長が伊賀出身の忍者であったため、伊賀同心が徳川家に召し抱えられた際に統率する立場となった
    • 伊賀同心は徳川家の直臣ではなく、服部家の家臣となることを不満に思っていた

    服部半蔵の生涯

    • 1542年、生誕
    • 1548年、大樹寺に預けられる
    • 1551年、出家を拒否。以後7年間の消息は不明
    • 1557年、上ノ郷城を夜襲し戦功を挙げたと伝わるが、どのような戦功かは不明。この戦功により槍を拝領する
    • 1560年の桶狭間の戦い以降、渡辺守綱と同じく、旗本馬廻衆に属する
    • 1563年、三河一向一揆では、一向宗であるにも関わらず、徳川家康に従い一揆方と戦う
    • 1569年、掛川城攻めに従軍する
    • 1570年、姉川の戦いでは、若い将兵の育成を任される。また姉川堤で一番槍の戦功を立てる
    • 1572年、三方ヶ原の戦いでは、大須賀康高隊に属し一番槍の戦功を挙げる。戦には敗戦したが奮闘を称えられ槍二穂を拝領し、伊賀衆150人を預けられる
    • 1574年、武田勝頼が遠江へ侵攻して来た際、板垣信通の家臣や小菅元成を迎撃している
    • 1575年、長坂信政の娘を正室に迎える。高天神城攻めに従軍する
    • 1579年、徳川信康が自刃に追い込まれた際、検使に遣わされる。介錯を命じられたが感情的に遂行できなかった。このことで、徳川家康からはより一層の信用を受けた
    • 1582年、徳川家康の伊賀越えに同行し、先祖の縁から、伊賀・甲賀の土豪との交渉役を務める。一揆の襲撃に遭い家康を守り大怪我を負う。天正壬午の乱に従軍し、天神ヶ尾砦の陥落に功があり家康から賞賛される
    • 1590年、小田原攻めでは、鉄砲奉行として従軍し18の首級を挙げる
    • 1592年、肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍する
    • 1597年、病のため死去する。享年55
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