内藤 正成(ないとう まさなり)
生年 | 1528年 |
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没年 | 1602年 |
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主君 | 松平広忠→徳川家康 |
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拠点・知行 | |
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官位・役職 | |
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幼名 | 四郎左衛門 |
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法名 | |
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別名 | 甚一郎 |
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内藤正成の家族構成
父 | 内藤忠郷 |
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母 | |
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兄弟 | 忠村、正成、忠政 |
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正室 | 石川十郎左衛門の娘 |
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側室 | 牧野康成の娘 |
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子 | 正貞、正成、本多正盛 |
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親族 | |
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内藤正成の逸話
- 徳川十六神将のひとり
- 徳川家中随一の弓の使い手で、「軍神四郎左兵衛門」と畏怖された
- 一矢で2人を射抜いたことがあるという
- 武田家からも恐れられていた
- 武功に対して俸禄が少ないのは家中の文治派との政争に敗れたからと考えられる
- 本多忠勝を「かす」と罵ったことがある
- 病の平癒のため、徳川秀忠が医師、久志本右京亮常衡を付ける。破格の待遇であったが回復には至らなかった
内藤正成の生涯
- 1528年、生誕
- 1548年、第二次小豆坂の戦いで戦才をみせ、織田方200名を死傷させ戦局を左右させたと伝わる
- 1560年、桶狭間の戦いの大高城兵糧入れに従軍する
- 1563年、三河一向一揆では、徳川家康に従い、自身の舅である石川氏を弓で射る。また、一揆方の勇将、渡辺高綱を討ち取る
- 1573年、三方ヶ原の戦いに従軍する
- 1590年、家康の関東移封の際、武蔵国埼玉郡に5000石を与えられる
- 1602年、病のため死去する。享年75