生年 | 1561年 |
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没年 | 1602年 |
主君 | 徳川家康 |
拠点・知行 | 上野高崎城 |
官位・役職 | 従五位下、従四位下・修理大夫、侍従 |
幼名 | 万千代 |
法名 | |
別名 | 虎松、松下虎松、井伊の赤鬼、人斬り兵部 |
井伊直政の家族構成
父 | 井伊直親 継父:松下清景 |
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母 | ひよ(奥山朝利の娘) 養母:井伊直虎(井伊直盛の娘) |
兄弟 | 吉直?、直政 |
正室 | 花(松平康親の娘、徳川家康の養女) |
側室 | 印具道重の娘 |
子 | 直勝、直孝 |
親族 |
井伊直政の逸話
- 井伊家は遠江国井伊谷を本貫とする領主の家柄。直政は徳川家中では外様である
- 徳川三傑、徳川四天王。徳川十六神将のひとり
- 大変な美男子であり、家康の寵童であったと伝わる
- 小姓の頃、大久保忠世に同僚や部下を思いやる大切さを諭されたことがある
- 心優しく、もてなしが丁寧であったため、外交役を多く任された
- 妻は家康の養女、花
- 恐妻家だった
- 榊原康政と仲が良かった
- 長宗我部元親と親交があった
- 秀吉の母、大政所から、大層気に入られていた
- 若い新参の直政は徳川家中での嫉妬は相当なものであった
- 関ヶ原の戦いでは、先陣の抜け駆けをしたと伝わるが賛否ある
井伊直政の生涯
- 1560年、桶狭間の戦いでは、井伊家当主・井伊直盛が戦死する
- 1561年、生誕
- 1562年、父・井伊直親が今川氏真に謀反の嫌疑をかけられ謀殺されると、直政も今川家より命を狙われる。紆余曲折を経て、1575年、家康に小姓として仕える
- 1581年、高天神城の戦いに参加し戦功を立てる
- 1582年、元服する。徳川伊賀越えに同行する。天正壬午の乱では、北条家との交渉役を任ぜれらる。徳川家が武田家を併呑すると、旗本先手役の侍大将となり、武田家臣の多くを麾下の置くこととなる。直政の軍は「井伊の赤備え」と呼ばれる
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、初めて赤備えを率いて戦功を立て、その名を内外に轟かせる。修理大夫に任官される
- 1585年、真田攻めを行った軍の撤退を指揮する
- 1586年、徳川家が豊臣家に臣従する。秀吉より従五位下に叙位され、豊臣姓を与えられる
- 1588年、聚楽第行幸の際、侍従に任官され、徳川家臣の中で唯一、昇殿を許される
- 1590年、小田原攻めでは、夜襲をかけ小田原城内に攻め込む。城内に入った唯一の将として高く評価される
- 1591年、九戸政実の乱では、先鋒を務める
- 1598年、豊臣秀吉が没すると、多数の豊臣系大名と交渉を行い、味方に引き入れることに成功する
- 1600年、関ヶ原の戦いでは、家康本陣に随行、本多忠勝とともに東軍の軍監に任ぜられる。また、稲葉貞道、加藤貞泰、京極高次、関一政、竹中重門、相良頼房、犬童頼兄を調略する。本戦終盤では島津豊久を討ち取るが、足を狙撃される。決戦後、負傷した身でありながら、戦後処理に尽力する。西軍総大将の毛利輝元との交渉役を任ぜられ、毛利家の周防、長門の安堵を取りまとめ、毛利家より厚い信任を受ける。また、島津家、真田家との交渉も行っている。これらの軍事的、外交的実績から、近江国佐和山18万石を与えられ、従四位下に叙位される
- 1602年、関ヶ原の戦いでの鉄砲傷が原因で死去する。享年42
私見
こういうタイプの方、会社にもいますね。若くてイケメンでめっちゃ仕事できて上司や取引先に気に入られる。同僚から嫌われる要素しかありません。おそらく相当な嫌がらせを受けたことだと思います。一見、華やかな人生に見えますが、悩みの多い人生だったのではないでしょうか
それでも屈せず、圧倒的な実績を作って家中で大出世を遂げる。素晴らしいですね
後世、人気が出るのも当然です