酒井 忠次(さかい ただつぐ)

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    酒井忠次の肖像画
    出典:Wikipedia:酒井忠次像(先求院所蔵)
    生年1527年
    没年1596年
    主君松平広忠→徳川家康
    拠点・知行三河吉田城
    官位・役職従四位下・左衛門督
    幼名小平次
    法名一智
    別名小五郎、左衛門尉

    酒井忠次の家族構成

    酒井忠親
    兄弟忠善、忠次、恒城
    正室碓井姫(松平清康の娘)
    側室山県昌景の娘?、小山十兵衛の娘?
    家次、本多康俊、小笠原信之、松平久恒、忠知
    親族

    酒井忠次の逸話

    • 忠次愛用の槍は甕通槍、刀は猪切という
    • 海老すくいという踊りを得意とし、宴席で披露することがあった
    • 長篠の戦いでは信長から「徳川の片腕」と称賛された

    酒井忠次の生涯

    • 1527年、生誕
    • 元服後、松平広忠に仕え、徳川家康の今川人質時代は家康に同行する。家康より16歳年上である
    • 1556年、居城の福谷城に侵攻した織田家臣の猛将、柴田勝家を敗走させる
    • 1560年、桶狭間の戦いの後、徳川家家老となり、三河一向一揆でも家康に従う
    • 1564年、吉田城を無血開城させ、吉田城主となり東三河の統制を任される。また、甲斐・武田信玄との同盟の間は徳川方の交渉窓口となる
    • 1570年、姉川の戦いでは、朝倉軍に突撃し戦陣の火蓋を切る
    • 1573年、三方ヶ原の戦いでは、小山田信茂を撃破
    • 1575年、長篠の戦いでは、鳶巣山砦を陥落させ長篠城を救出後、川窪信実を討ち取り、有海村の武田勢をい大いに打ち破る
    • 1579年、信康事件では、忠次は大久保忠世とともに信長への弁明の使者に立てられるが弁護できず、信康は切腹に追い込まれたとされるが、近年では信康の切腹は家康と不仲であったため、家康の意向である説が有力である
    • 1582年、本能寺の変の後は、信濃統制を担当する
    • 1584年、小牧・長久手の戦いでは、森長可を敗走させる
    • 1585年、同格とされる石川数正が出奔すると、徳川家筆頭の重臣とされ、翌1586年には家中で最高位である従四位下、左衛門督に叙位任官される
    • 1588年、家督を嫡男・酒井家次に譲り、隠居する。眼病により目が見えなかったことが理由のひとつとされる。豊臣秀吉から1000石の在京料を与えられ、出家して一智と号したと伝わる
    • 1596年、京都にて死去する。享年70

    私見

    ナギサさん(大森南朋)のおかげで、2023年、一気に市民権得そうな予感(笑)結構長生きですね

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