真田 幸村(さなだ ゆきむら)

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    真田幸村の肖像画
    出典:Wikipedia:上田市立博物館所蔵
    生年1567年または1570年
    没年1615年
    主君武田勝頼→真田昌幸→上杉景勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼
    拠点・知行摂津大坂城
    官位・役職従五位下・左衛門佐
    幼名弁丸
    法名好白斎、伝心月叟
    別名信繁、豊臣信繁、源二郎、源次郎

    真田幸村の家族構成

    真田昌幸
    山手殿(寒松院殿)
    兄弟信之、幸村、信勝、昌親
    正室竹林院(大谷吉継の娘)
    側室隆清院(豊臣秀次の娘)、堀田興重の娘または妹、高梨内記の娘
    幸昌、幸信
    親族

    真田幸村の逸話

    • 大阪夏の陣で徳川家康を追い込んだ名将として語り継がれている
    • 細川忠興から「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄」と評され、、島津忠恒からも真田日本一の兵と称えられた

    真田幸村の生涯

    • 1567年、もしくは1570年、真田昌幸の次男として生誕
    • 1582年、滝川一益のもとへ人質として送られる
    • 同年、本能寺の変の後、一益が関東を離れる際木曾義昌へ引き渡される
    • 1585年、真田氏が上杉氏へ従属する際に人質として越後へ送られる
    • 1590年頃、昌幸が羽柴秀吉に従属した際人質として大阪へ移り、この後に、大谷吉継の娘である竹林院を正室に迎える
    • 1590年、小田原攻め。石田三成の指揮下で吉継とともに忍城攻めに従軍する
    • 1594年、従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜る
    • 1600年、関ヶ原の戦い。昌幸と共に西軍に加わり、兄である信之とは敵味方に別れる
    • 同年、第二次上田合戦。昌幸とともに上田城にて徳川秀忠を迎え撃ち、退ける
    • 関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、信之とその義父である本多忠勝の助命嘆願により高野山へ拘置となる
    • 1611年、昌幸が死去
    • 1612年、出家し好白と名乗る
    • 1614年、豊臣家からの呼びかけで昌幸の元臣下にも声をかけ、嫡男である大助幸昌とともに大阪城へ入城する
    • 同年、大坂冬の陣・真田丸の戦い。自身は反対したものの、徳川軍に対して籠城作戦が決定される。徳川軍に備え、大阪城で最も弱いとされた三の丸南側に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き上げ、撃退する。しかし冬の陣の講和の際に真田丸は取り壊される
    • 1615年、大坂夏の陣・道明寺の戦い。伊達氏の先遣隊を一時的に退却させる
    • 同年、大阪夏の陣、天王寺・岡山の戦い。二度に渡り家康の本陣に攻め込むものの、最後は押し返され、安居神社で討ち取られる。享年49
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