増田 長盛(ました ながもり)
生年 | 1545年 |
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没年 | 1615年 |
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主君 | 豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
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拠点・知行 | 大和郡山城 |
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官位・役職 | 従五位下・右衛門少尉 |
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幼名 | |
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法名 | |
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別名 | 仁右衛門 |
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増田長盛の家族構成
父 | |
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母 | |
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兄弟 | 長盛、長俊 |
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正室 | |
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側室 | |
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子 | 盛次、長勝、新兵衛 |
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親族 | |
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増田長盛の逸話
増田長盛の生涯
- 1545年、生誕
- 1573年、近江長浜城主・羽柴秀吉に仕える
- 1577年、羽柴秀吉の中国攻めに従軍し、鳥取城攻めでは陣中萬の物商奉行に任じられる
- 1582年、奏者に任じられると、上杉景勝との外交交渉を担当する
- 1584年、小牧・長久手の戦いに従軍し戦功を挙げる
- 1585年、従五位下・右衛門尉に叙任される
- 1587年、関戸奉行に任じられる
- 1590年、小田原攻めでは里見義康担当の申次を務める
- 1592年、文禄の役では、石田三成・大谷吉継と共に朝鮮に渡海して漢城に滞在し、奉行として占領地統治や兵站を担う
- 1595年、豊臣秀吉の命令で豊臣秀頼が切腹する事件が起きると、長束正家と共に秀次の老臣を糾弾する
- 同年、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が死去すると大和郡山城20万石を与えられる
- 1596年、サン=フェリペ号事件の処理で土佐に派遣される
- 1597年、慶長の役では渡海せず国内に留まる
- 1598年、翌年に福島正則・石田三成と共に大将として朝鮮へ渡海する予定だったが豊臣秀吉が死去すると朝鮮出兵事態が白紙になる
- 1600年、前田玄以などと共に五奉行連判で家康の悪事を批難する弾劾書を示す
- 同年、伏見城攻めには自ら従軍し、城内に籠る甲賀衆を調略し、落城させる
- 同年、大津城の戦いでは一門の増田作左衛門を援軍として送る
- 同年、関ヶ原の戦いの本戦では毛利輝元と共に大坂城守備部隊として西の丸に駐留する。
- しかし西軍が敗北すると出家して徳川家康に謝罪し、改易され高野山に送られる
- 1615年、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子・増田盛次が大坂夏の陣で尾張家を裏切り、豊臣氏に付き、戦後に責任を取って自害を命じられる。享年71