前田 玄以(まえだ げんい)
生年 | 1539年 |
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没年 | 1602年 |
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主君 | 織田信長→織田信雄→豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
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拠点・知行 | 丹波亀山城 |
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官位・役職 | 民部卿法印 |
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幼名 | |
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法名 | 玄以、半夢斎、徳善院 |
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別名 | 基勝、孫十郎 |
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前田玄以の家族構成
父 | 前田基光 |
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母 | |
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兄弟 | |
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正室 | 村井貞勝の娘 |
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側室 | |
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子 | 秀以、正勝、茂勝 |
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親族 | |
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前田玄以の逸話
- 僧侶だったこともあり、キリシタンに対して否定的だったが、後に理解を示して秀吉がバテレン追放令を公布すると京都で密かにキリシタンを保護していた
前田玄以の生涯
- 1539年、生誕
- 1579年頃、織田信長の命令で嫡男・織田信忠の家臣になる
- 1582年、本能寺の変が起きると織田信忠と共に二条新御所に滞在していたが、信忠の命で逃れ、嫡男・三法師を美濃岐阜城から尾張清洲城に移す
- 1583年、織田信長の次男・織田信雄に仕えると京都所司代に任じられる
- 1584年、羽柴秀吉の家臣となる
- 1595年、豊臣秀吉から5万石を与えられ、丹波亀山城主となる
- 1600年、関ヶ原の戦いでは豊臣秀頼の護衛を第一に考え、中立の立場を貫く。
- 関ヶ原の戦い後、中立を取り続けたことを評価されると、丹波亀山5万石の本領を安堵され初代丹波亀山藩主となる
- 1602年、死去する。享年64