生年 | 1561年 |
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没年 | 1624年 |
主君 | 豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠 |
拠点・知行 | 安芸広島 |
官位・役職 | 従五位下、左衛門大夫(左衛門尉)、侍従、左近衛権少将、従四位下、従三位、参議 |
幼名 | 市松 |
法名 | 高斎 |
別名 | 市兵衛、羽柴清州侍従 |
福島正則の家族構成
父 | 福島正信 |
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母 | 松雲院 |
兄弟 | 正則、高晴、長則、正守 |
正室 | 照雲院(津田長義の娘) 継室:昌泉院(徳川家康の養女) |
側室 | |
子 | 正友、忠勝、正利 養子:正宣、正之(別所重宗の子) |
親族 |
福島正則の逸話
- 非常に酒癖が悪く、泥酔した勢いで家臣に切腹を命じて、翌朝になって過ちに気づいたが、すでに家臣は腹を切っており、その家臣の首に泣いて詫びた
- また、酒宴の席で黒田家家臣・母里太兵衛に飲み干せたならば好きな褒美をとらす酒を勧め、見事に飲み干した太兵衛に要求され、秀吉から拝領した名槍「日本号」を泣く泣く渡し、この出来事が「黒田節」として伝わる
- 恐妻家で、浮気をした際に妻・昌泉院に薙刀で追い回され、戦場で背を見せたことの無い正則が慌てて逃げ出したといわれる
福島正則の生涯
- 1561年、生誕
- 1578年、播磨三木城攻めで初陣を飾る
- 1583年、賤ヶ岳の戦いにおいて、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取ると大功を挙げる
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、父・福島正信と共に、後備えとして従軍する
- 1587年、九州攻めの後、伊予・今治11万3千余石を与えられる
- 1590年、小田原攻めでは織田信雄軍として、蜂須賀家政・細川忠興・蒲生氏郷などと共に韮山城を包囲する
- 1592年、文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正・来島通総らを率いる
- 1594年、朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した際には自ら軍船に乗って指揮を執り撃退する
- 1595年、豊臣秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるがこの際、秀次に切腹の命令を伝える
- 1598年、羽柴姓を与えられる
- 1599年、加藤清正らと共に石田三成襲撃事件を起こす
- 1600年、会津攻めに従軍する
- 同年、関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家と戦い、苦戦するも宇喜多勢の侵攻を防ぐ
- 1601年、安芸へ入り、検地を行う
- 1602年、厳島神社・平家納経を修復する
- 1603年、安芸最西端に亀居城の築城を開始する
- 1608年、豊臣秀頼が病を患うと、見舞いに大阪城へ赴く
- 1611年、徳川家康が豊臣秀頼に二条城での会見を迫った際には強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長と共に説得し、秀頼の上洛を実現させる
- 1614年、大坂夏の陣では豊臣秀頼に加勢を求められるが拒否する
- 1619年、台風で破壊された広島城を無断で修繕したことを武家諸法度違反に問われ将軍・徳川秀忠に安芸・備後50万石は没収、信濃川中島四郡中の高井郡と越後魚沼郡の4万5,000石に減転封される
- 同年、家督を嫡男・福島忠勝に譲り隠居、出家し高斎と名乗る
- 1624年、高井野で死去する。享年64