竹中 重治(たけなか しげはる)
生年 | 1544年 |
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没年 | 1579年 |
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主君 | 斎藤龍興→浅井長政→織田信長→羽柴秀吉 |
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拠点・知行 | 近江横山城 |
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官位・役職 | |
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幼名 | 重虎 |
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法名 | |
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別名 | 半兵衛、今孔明 |
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竹中重治の家族構成
父 | 竹中重元 |
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母 | 妙海大姉(杉山久左衛門の娘) |
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兄弟 | 重行、重治、重矩、彦八郎 |
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正室 | 得月院(安藤守就の娘) |
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側室 | |
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子 | 重門 |
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親族 | |
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竹中重治の逸話
- 体が弱くほっそりした見た目で女性のようで、出陣時も馬に乗っているだけだったが、剣術は皆伝の腕前だった
- 黒田孝高が有岡城に幽閉された際、孝高が荒木村重に寝返ったと勘違いした織田信長は、人質である孝高の息子・松寿丸の殺害を羽柴秀吉に命じるが、重治は孝高を信じ、松寿丸を居城に匿い、病死した子供の首と入れ替えて信長に差し出し、その命を救う
竹中重治の生涯
- 1544年、生誕
- 1556年、長良川の戦いで初陣を飾る
- 1559年、父・ 竹中重元が、菩提山城を築き居城とするとそれに従う
- 1560年、父・ 竹中重元の隠居もしくは死去により家督を相続し菩提山城主となり、美濃国主・斎藤義龍に仕える
- 1561年、斎藤義龍が死去すると、後継者となった斎藤龍興に仕える
- 1563年、美濃・新加納に織田信長が侵攻してくるが、戦術をふるって斎藤軍を勝利に導く
- 1564年、西美濃三人衆と共に主君・斎藤龍興から冷遇されたため、龍興の居城・稲葉山城を占領し龍興を追い払う
- 1567年、織田信長の進軍により斎藤龍興が稲葉山城を追われると斎藤家を去り、北近江・浅井長政の客分となる。しかし1年ほどで辞任すると岩手へ戻り、その後木下秀吉の誘いを受け家臣となる
- 1570年、浅井方の長亭軒城・長比城を調略によって織田方に懐柔させる
- 1578年、豊臣秀吉の中国攻めに従い、備前八幡山城を調略で落城させる
- 同年、織田信長の誤解により殺されそうになった黒田孝高の嫡男・松寿丸を助け、家臣・不破矢足の屋敷に匿う
- 1579年、三木合戦の最中に病に倒れ、陣中で死去する。享年36