豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)
生年 | 1593年 |
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没年 | 1615年 |
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主君 | 豊臣家第2代当主 |
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拠点・知行 | 摂津大坂城 |
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官位・役職 | 従三位・左近衛権中将、従二位・権中納言、権大納言、正二位、内大臣、右大臣 |
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幼名 | 拾 |
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法名 | |
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別名 | |
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豊臣秀頼の家族構成
父 | 豊臣秀吉 |
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母 | 茶々(淀殿。浅井長政の娘) |
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兄弟 | 石松丸、鶴松、秀頼 |
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正室 | 千姫(徳川秀忠の娘) |
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側室 | 伊茶(和期の方。渡辺五兵衛の娘)、小石の方(成田助直の娘) |
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子 | 国松、伊集院久尚 |
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親族 | |
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豊臣秀頼の逸話
- 身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)と伝わっており、当時としては並外れた巨漢だった
豊臣秀頼の生涯
- 1593年、生誕
- 1595年、父・豊臣秀吉が従兄・豊臣秀次の関白の地位を奪いさらに自刃させる。秀次の妻や子供も処刑され、秀吉の後継者の地位を確立される
- 1596年、父・豊臣秀吉と共に初めて宮中へ参上し豊臣朝臣藤吉郎秀頼と名乗る
- 1597年、元服し、従四位下に叙任される
- 1598年、父・豊臣秀吉が死去すると家督を継ぎ、秀吉の遺言で大阪城に入る
- 1600年、関ヶ原の戦いが起こると西軍総大将・毛利輝元の保護下に置かれる
- 1603年、生前の父・豊臣秀吉の配慮で婚約していた徳川秀忠の娘・千姫を正室に迎える
- 1607年、右大臣を辞任する
- 同年、慶長伏見地震で大破し、その後豊臣秀吉の命令で破却された方広寺大仏と大仏殿を豊臣家家臣・片桐且元を奉行として再建工事を始める
- 1611年、上洛した徳川家康と二条城で会見する
- 1612年、方広寺大仏と大仏殿の再建が完了する
- 1614年、方広寺に納める梵鐘に刻まれた銘文を巡り徳川家康との間に方広寺鐘銘事件が起きる
- 同年、方広寺鐘銘事件を口実に大坂冬の陣が起きる。戦線は膠着し兵糧や弾薬が尽き始めたため、家康から大坂城の堀の破棄を条件に和睦を提案される
- 1615年、堀の再建を始めたため徳川家康から和睦が破られたとして大阪夏に陣が起こる
- 真田信繁をはじめとする多くの武将が徳川方に討ち取られ大阪城への侵入を許し、山里丸に逃れるがそこも包囲され生母・淀殿や大野治長らと共に自害する。享年23