生年 | 1537年 |
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没年 | 1598年 |
主君 | 松下之綱→織田信長→織田秀信 |
拠点・知行 | 摂津大坂城 |
官位・役職 | 筑前守、従五位下・左近衛権少将、従四位下・参議、従三位・権大納言、正二位・内大臣、従一位・関白、太政大臣 |
幼名 | 日吉丸? |
法名 | |
別名 | 木下藤吉郎、木下秀吉、羽柴秀吉、平秀吉、藤原秀吉、豊太閤、猿、禿げ鼠、木綿藤吉 |
豊臣秀吉の家族構成
父 | 木下弥右衛門 継父:竹阿弥 猶父:近衛前久 |
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母 | 仲(大政所) |
兄弟 | 秀吉、秀長、羽柴小四郎 |
正室 | 寧々(北政所、高台院。杉原定利の娘、浅野長勝の養女) |
側室 | 南殿(山名禅高の娘)、茶々(淀殿。浅井長政の娘)、あかね(南の局。山名豊国の娘)、竜子(松の丸殿。京極高吉の娘)、摩阿(加賀殿。前田利家の娘)、甲斐姫(成田氏長の娘)、三の丸殿(織田信長の娘、蒲生氏郷の養女)、とら(三条殿。蒲生賢秀の娘)、姫路殿(織田信包の娘)、広子(広沢局。名護屋経勝の娘)、嶋子(月桂院。足利頼純の娘)、種(香の前。高田次郎右衛門の娘)、おふく(円融院。三浦能登守の娘) |
子 | 石松丸、鶴松、秀頼 養子:於次丸秀勝(織田信長の子)、結城秀康(徳川家康の子)、小早川秀秋(木下家定の子)、秀次(三好一路の子)、秀勝(三好吉房の子)、池田輝政(池田恒興の子)、池田長吉(池田恒興の子) |
親族 |
豊臣秀吉の逸話
- 右手の親指が生まれつき1本多く、織田信長からは「六ツめ」と呼ばれることもあった
- 織田信長が秀吉の正室・高台院宛に送った書状では失跡の際に「禿げ鼠」と呼ばれている
- 人心掌握の天才とされ、人たらしと呼ばれている
豊臣秀吉の生涯
- 1537年、生誕
- 1550年、義父・竹阿弥と不仲で暴力を受けていた為、生家を出て侍を目指して遠江へ渡り、駿河・今川義元の家臣・飯尾氏配下で頭陀寺城主・松下之綱に仕える
- 1554年頃、織田信長に小者として仕え、清州城の普請奉行・台所奉行を進んで引き受け徐々に信直配下の中で頭角を表す
- 1561年、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと婚姻する
- 1564年、、美濃・斎藤龍興との戦いで、松倉城主・坪内利定や鵜沼城主・大沢次郎左衛門らに降伏するよう勧告し成功させる
- 1566年、わずかな期間で墨俣城を建設する手柄を立てたとされ、この頃に蜂須賀正勝・前野長康を配下にしている
- 1567年、斎藤氏滅亡後に織田信長に願い出て、竹中重治・牧村利貞・丸毛兼利を与力として配下にする
- 1568年、近江・箕作城攻略で戦功を挙げる
- 同年、織田信長が上洛する際に明智光秀・丹羽長秀と共に京都の政務を任される
- 1569年、多々良浜の戦いで毛利元就と大友宗麟が戦っている隙に、尼子氏残党が元就から出雲を奪い返すために挙兵し、山名祐豊がその援軍に向かう。これに対し、元就から祐豊の背後を攻めるよう依頼された織田信長に命じられ出陣し、10日余りで18もの城を落とし京へ引き返す
- 1570年、越前・朝倉義景討伐の金ヶ崎の戦いに従軍するが、北近江・浅井長政の裏切りに会い、背後から奇襲を受ける。窮地に立たされるが、池田勝正・明智光秀と共に殿を務め戦功を挙げる
- 同年、朝倉・浅井連合軍との姉川の戦い後は横山城代に任じられる。
- 1573年、木下から羽柴に名字を改める
- 同年、浅井氏が滅亡すると北近江を与えられ、今浜を長浜と改め、長浜城主となり近江に在籍した旧浅井家臣団や、石田三成などを登用する
- 1574年、筑前守に任官される
- 1575年、長篠の戦いに従軍する
- 1576年、織田信孝と共に北畠具教の旧家臣が籠城する霧山城を攻め落とす
- 1577年、手取川の戦いで越後・上杉謙信と相対する柴田勝家の援護を織田信長に命じられるが、作戦をめぐって勝家と対立し、兵を引き上げる。結果、勝家は謙信に敗れ、この行為は信長の逆鱗に触れる。織田家中での立場が危うくなるが、信貴山城の戦いで織田信忠の指揮の下、佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍し、戦功を挙げる
- 同年、信長の命令で西国・毛利輝元の勢力化へ進軍を始める。播磨から但馬へ入り、岩洲城・竹田城を攻略し、黒田孝高から姫路城を譲り受け中国攻めの拠点とする
- 1579年、毛利家との戦いで備前美作・宇喜多直家を従属させるが摂津・荒木村重が造反し、中国攻めは中断せざるを得なくなる
- この頃に信長の四男・羽柴秀勝を養子に迎えることを許される
- 1580年、播磨三木城主・別所長治との戦いで、家臣である竹中重治・古田重則を失いながらも兵糧攻めの末に開城せる
- 同年、播磨から但馬へ進軍し、山名祐豊が籠城する有子山城を攻め落とし、但馬を織田家の支配下に置く。播磨統治に専念するため、弟・羽柴秀長を有子山城主に任命し、但馬を統治させる
- 1581年、因幡山名家臣団が毛利一族・吉川経家を立て、鳥取城で反抗するが、兵糧攻めで落城させる
- 1582年、備中で清水宗治が守る備中高松城を水攻めする
- 同年、本能寺の変。本能寺で主君・織田信長が明智光秀に謀反を起こされ、自害する。これを知ると、清水宗治の切腹を条件に毛利輝元と講和し、備中から京都に急ぎ引き返す。そのまま山崎の戦いで信長の三男・織田信孝や池田恒興・丹羽長秀、更には光秀の与力だった中川清秀・高山右近の援護を受け光秀を破る。光秀は落ち武者狩りにより討たれる
- 同年、織田信長の後継者と遺領の分割を決めるため、清州会議が開かれる。織田家重臣・柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推挙するが、秀吉は信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師を推挙する。池田恒興・丹羽長秀らの支持を受け、幼少の三法師の後見人を信孝にすることを提案し、勝家も最終的に従い三法師が信長の後継者となり、領地も丹波・山城・河内を増領し勝家を上回った
- 同年、山崎に山崎城の築城を始めるが勝家との対立が激化し始め、勝家は滝川一益・織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまく
- 同年、越前に雪が積もり、勝家が動けないのを確認した上で、信孝が三法師を安土に戻さないことを理由に討伐するために挙兵する。山崎城から出陣すると勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲し、開城させる。続いて美濃へ入ると稲葉一鉄を降伏させ、織田信雄とも合流し信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を降伏させ、信孝の岐阜城を孤立させる。進退窮まった信孝は三法師の引き渡しと母・坂氏と娘を差し出して和睦した
- 1583年、反対する勢力との争いが激しくなるが、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、越前へ撤退させると勝家は正室・お市の方と共に自刃し、織田信孝も自刃に追い込み、滝川一益は降伏させ、織田家臣の頂点に立ち、実質的に織田家中を支配していく
- 同年、石山本願寺の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城の築城を始める
- 1584年、徳側家康・織田信雄連合軍との間に小牧・長久手の戦いが起きる。池田恒興・池田元助親子や森長可といった有力家臣を失いながらも信雄の本領である美濃・北伊勢を自ら攻略し追い詰め、信雄と和睦し家康も次男・秀康を人質として差し出したので同じく和睦する
- この戦いの頃に従五位下・左近衛権少将に叙任される
- 1584年、従三位・権大納言に叙任され公卿となる。この前月に朝廷から将軍任官を打診されているが断る
- 1585年、正二位・内大臣に叙任される
- 同年、紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で撃破し、最期は藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させ紀伊国を平定する
- 同年、四国攻めを開始する。四国を支配した長宗我部元親に対し弟・羽柴秀長・黒田孝高を送り込み、更に毛利輝元・小早川隆景も動員し元親を降伏させる
- 四国攻めの最中に朝廷で起きていた二条昭実と近衛信輔の関白職を巡る争いに介入すると
- 近衛前久の猶子となり関白宣下を受ける
- 同年、佐々攻めを始め、越中・佐々成正の討伐に進軍する。しかしほとんど戦うことなく成正は降伏し織田信雄の仲介もあったため成正を許す
- 1586年、正親町天皇から豊臣の姓を賜りその後は太政大臣に就任する
- 1587年、戸次川の戦いでは島津義久に押された大友義統の救援要請を受け、仙石秀久を軍監とする、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保ら四国勢を向かわせ豊後・戸次川で島津家久と交戦する。しかし秀久が失策、信親・存保が討ち取られ敗戦する
- 同年、根白坂の戦いでは弟・豊臣秀長が島津義久を破り九州を平定する
- 同年、バテレン追放令を発布し、キリスト教を禁じ、宣教師を国外へ追放する
- 同年、平安京大内裏跡に朝臣としての本邸・聚楽第を構える
- 1588年、聚楽第行幸では後陽成天皇を迎え華々しくもてなし、徳川家康・織田信雄らに忠誠を誓わせる
- 同年、刀狩令や海賊停止令を全国に公布する
- 1589年、側室・淀殿との間に鶴松が産まれ後継者に指名する
- 1590年、後北条家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野名胡桃城を奪ったのをきっかけに小田原攻めを開始する。大軍で北条家本拠・小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降伏させ、天下統一を果たす
- 同年、陸奥と出羽で豊臣政権に反抗する一揆が起きる。出羽の一揆は年度内に鎮圧されるが、陸奥・葛西大崎一揆は翌年まで続く
- 1591年、九戸政実が武装蜂起し九戸政実の乱が起きる。これを鎮圧するため、豊臣秀次を総大将に徳川家康・蒲生氏郷・佐竹義重・上杉景勝・伊達政宗・宇都宮国綱を擁する大軍を派兵し平定させる
- 同年、弟・豊臣秀長と後継者だった鶴松が相次いで病死する。そのため甥・豊臣秀次を家督を相続させるための養子にし、関白職を譲り以後、太閤と呼ばれるようになる
- 1592年、明・朝鮮の征服を目論み宇喜多秀家を元帥とする軍勢を朝鮮へ出兵する。初期は圧倒したものの、明の援軍が到着すると戦線は膠着していき翌年には講和交渉が始まる
- 1593年、側室・淀殿との間に秀頼が産まれる
- 1595年、豊臣秀次に謀反の疑いが生まれ、切腹を命じ小姓や家臣らが殉死するがそれだけではなく秀次の遺児や側室・侍女も処刑した
- 1596年、土佐にスペインのガレオン船・サン=フェリペ号が漂着し、スペインの武力制圧を疑い再び禁教令を発令する
- 1597年、来日したフランシスコ会の布教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行・石田三成に命じて京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑する
- 同年、小早川秀秋を元帥として再度朝鮮へ出兵する
- 1598年、病に伏せ、日々病状が悪化し死期を悟ると徳川家康に豊臣秀頼の後見人になることを依頼し病死する。享年62