明智 秀満(あけち ひでみつ)
生年 | 1536年? |
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没年 | 1582年 |
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主君 | 明智光秀 |
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拠点・知行 | 近江坂本城 |
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官位・役職 | |
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幼名 | |
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法名 | |
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別名 | 三宅弥平次、光春、光遠、秀俊、光俊、光昌、左馬助 |
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明智秀満の家族構成
明智秀満の逸話
- 琵琶湖を馬で駆け抜けた「明智左馬助の湖水渡り」という伝説が残されている
- 「兎耳頭高兜」という兎の耳を模した兜を愛用していたといわれている
明智秀満の生涯
- 1536年頃、生誕
- 1556年、長山城にいた父・明智光安に従っていたが、光安の仕えていた斎藤道三が斎藤義龍に敗北したため、長山城は落城し光安は自害し自身は明智光秀と共に浪人となる
- 1578年頃、明智光秀の娘を妻に迎える
- 1581年、丹波福知山城を与えられる
- 1582年、本能寺の変では先鋒として本能寺を急襲する。その後は安土城の防衛に就くが、明智光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北したことを知ると坂本城へ向かう。
- 坂本城を堀秀政に包囲されるとしばらく防戦するが、城に所有していた名物を荷造りして目録と共に秀政の一族・堀直政の元へ送る。
- その後、光秀の妻子と自身の妻を刺殺し、切腹すると火を放つ。享年47