生年 | 1524年 |
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没年 | 1608年 |
主君 | 織田信秀→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康→徳川秀忠 |
拠点・知行 | 飛騨高山城 |
官位・役職 | 正四位下・兵部卿、飛騨守 |
幼名 | |
法名 | 素玄 |
別名 | 可近、五郎八 |
金森長近の家族構成
父 | 金森定近 |
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母 | |
兄弟 | 政近、長近、政秀、安楽庵策伝 |
正室 | お福の方 継室:久昌院 |
側室 | |
子 | 長則、長光、伊東治明 養子:可重(長屋景重の子) |
親族 |
金森長近の逸話
金森長近の生涯
- 1524年、生誕
- 1541年、尾張・織田信秀に仕官し、跡を継いだ織田信長にもそのまま仕える
- 1567年、織田信長が美濃を平定すると関吉田3000石を与えられる
- 1575年、長篠の戦いでは、徳川家康配下の酒井忠次と共に武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦に突撃し陥落させる
- 同年、越前一向一揆攻めに従軍し、本願寺・杉浦玄任を討ち破る戦功を挙げる
- 1582年、甲州攻めでは飛騨口の大将を担う
- 同年、従四位下・兵部大輔に叙任され、その後正四位下兵部卿となる
- この頃、板取田口城主の長屋景重の子・金森可重を養子に取り、その正室に郡上八幡城主遠藤慶隆の娘・室町殿を迎える
- 同年、本能寺の変が起こると嫡男・金森長則が織田信忠と共に二条新御所討死し、出家して兵部卿法印素玄と名乗る
- 1583年、清州会議後対立した羽柴秀吉と柴田勝家の間に賤ヶ岳の戦いが起きると、当初は勝家側として従軍するが、前田利家と共にし戦わずに撤退する。戦後は利家と共に秀吉に従属する
- 1584年、小牧・長久手の戦いに従軍する
- 1585年、羽柴秀吉が佐々攻めを行う際、飛騨・姉小路氏が妨害してくるとみて討伐を命じられる。帰雲城・高堂城を攻め姉小路氏を降伏させ、飛騨一国を与えられる
- 1590年、天神山に高山城の築城を始め、後にここを藩庁として初代高山藩主となる
- 1592年、文禄の役が始まると名護屋に在陣する
- 1594年、豊臣秀吉の御伽衆を務める
- 1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に所属し、養子の可重と共に上杉征伐に従軍する
- 1605年、飛騨と高山城の采配を養子の金森可重に任せ、上有知・鉈尾山城に入り、後に小倉山城を築いて移る
- 1608年、京都伏見で死去する。享年85