池田 恒興(いけだ つねおき)
生年 | 1536年 |
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没年 | 1584年 |
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主君 | 織田信秀→織田信長→織田秀信→羽柴秀吉 |
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拠点・知行 | 美濃大垣城 |
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官位・役職 | |
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幼名 | |
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法名 | 勝入 |
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別名 | 信輝、勝三郎、紀伊守 |
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池田恒興の家族構成
父 | 池田恒利 |
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母 | 養徳院(池田政秀の娘) |
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兄弟 | |
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正室 | 善応院(荒尾空善の娘) |
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側室 | |
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子 | 元助、輝政、長吉、長政 |
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親族 | |
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池田恒興の逸話
池田恒興の生涯
- 1536年、生誕
- 1560年、桶狭間の戦いに従軍する
- 1570年、姉川の戦いで戦功を挙げ、犬山城主となる
- 同年、長島一向一揆攻めに従軍する
- 1571年、比叡山焼き討ちに従軍する
- 1573年、織田信長と将軍・足利義昭との槙島城の戦いに従軍する
- 1574年、甲斐・武田勝頼に奪取された明智城の押さえとして、東濃の小里城に入る
- 1578年、織田信長に対して荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いに従軍する
- 1580年、摂津尼崎城・花隈城を落とし、戦後に伊丹城を与えられ荒木村重の配下だった中西新八郎らを与力とする
- 1582年、甲州攻めでは2人の息子を従軍させ、自身は摂津の守りを織田信長に命じられる
- 同年、本能寺の変が起きると中国大返しで戻った羽柴秀吉と合流し、山崎の戦いに従軍する
- 同年、本能寺の変後に起きた清州会議では柴田勝家に対抗して羽柴秀吉・丹羽長秀と共に信長の嫡孫・三法師を擁立する
- 1584年、小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉に与し、緒戦で犬山城を攻め落とす。しかし岩崎城の戦いで永井直勝に討ち取られる。享年49