滝川 一益(たきがわ かずます)
生年 | 1525年 |
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没年 | 1586年 |
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主君 | 六角定頼?→織田信長→織田秀信→豊臣秀吉 |
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拠点・知行 | |
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官位・役職 | 従五位下・左近尉、左近将監、伊予守 |
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幼名 | |
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法名 | 入庵、不干 |
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別名 | 久助 |
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滝川一益の家族構成
父 | 滝川資清 |
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母 | |
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兄弟 | 高安範勝、一益、然休天 |
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正室 | |
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側室 | |
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子 | 一忠、一時、辰政、知ト斎?、九天宗瑞 養子:忠征(木全忠澄の子) |
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親族 | |
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滝川一益の逸話
滝川一益の生涯
- 1525年、生誕
- 1560年、北伊勢・桑名が美濃との国境であるため北畠氏や関氏に対し備えることを織田信長に申し出、長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を築城し、後に友貞を放逐して蟹江城主となる
- 1563年、織田信長と松平家康の清州同盟の交渉役を務める
- 1567年、織田信長の伊勢攻めの際には先鋒として従軍する
- 1569年、大河内城の戦いに従軍すると、北畠具教の弟・木造具政を調略し、開城させる
- 1570年、織田信長と本願寺による石山合戦とそれに呼応した長島一向一揆の蜂起により信長の弟・織田信興が小木江城で討ち取られると自身も桑名城で籠城する
- 1573年、織田信長と朝倉義景の間で起こった一乗谷城の戦いに従軍する
- 1574年、3度目の長島一向一揆攻めに九鬼嘉隆らと共に水軍を率いて従軍する
- 1575年、長篠の戦いでは鉄砲隊の総指揮を執る
- 同年、越前一向一揆を鎮圧する
- 1576年、石山本願寺との天王寺合戦に従軍する
- 1577年、織田信長の紀州攻めに従軍する
- 1578年、第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆と共に水軍を率いる
- 1579年、有岡城の戦いにおいて上﨟塚砦の守る武将を調略し、有岡城の守備を崩す
- 1580年、小田原城主・北条氏政が織田信長に使者を送ると、武井夕庵・佐久間信盛と共に申次衆に任じられる
- 1581年、雑賀攻めに従軍する
- 1582年、甲州攻めでは武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取る大功を挙げる
- 同年、諸領主を厩橋城に集め能興行を催す
- 同年、本能寺の変後に沼須城主・藤田信吉が反乱を起こし沼田城を攻める沼田城の戦いが起きるが沼田城主・滝川益重から報告を受け鎮圧する
- 同年、北条氏政・北条氏直ら北条軍が信長の死を機に上州倉賀野に進軍して神流川の戦いが起き敗走し、更に清州会議に参加できず、織田家における地位が急落する
- 1583年、清州会議後対立を深めた羽柴秀吉と柴田勝家の間に賤ヶ岳の戦いが起きると勝家方に与して参戦する。勝家の自害後も長島城で籠城し奮戦するが降伏する。戦後は所領を没収され京都妙心寺で出家する
- 1584年、織田信雄・徳川家康が豊臣秀吉に反抗し、小牧・長久手の戦いが起きると秀吉に呼び出され秀吉方で参戦する。信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略するが蟹江城合戦では前田長定が討ち取られ、敗走する
- 1586年、越前大野で死去する。享年62