河尻 秀隆(かわじり ひでたか)
生年 | 1527年 |
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没年 | 1582年 |
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主君 | 織田信秀→織田信長 |
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拠点・知行 | 美濃神箆城 |
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官位・役職 | 肥前守 |
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幼名 | |
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法名 | |
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別名 | 鎮吉、与四郎、与兵衛尉 |
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河尻秀隆の家族構成
父 | 河尻親重? |
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母 | |
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兄弟 | |
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正室 | 高畠定吉の妹 |
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側室 | 蜂屋定広の娘または遠山友忠の妹 |
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子 | 秀長、鎮行 |
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親族 | |
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河尻秀隆の逸話
河尻秀隆の生涯
- 1527年、生誕
- 1542年、織田信秀に従い、第1次小豆坂の戦いに従軍し今川氏の先陣を務めた足軽大将・由原を一騎打ちの末討ち取る戦功を挙げる
- 1558年、織田信秀の死後仕えていた織田信長が弟・織田信行を暗殺するために清洲城へおびき寄せると、青貝某と共に信行の殺害を実行する
- 1560年、桶狭間の戦いに従軍する
- 1565年、丹羽長秀と共に美濃猿啄城攻めを命じられ、長秀が隣山を占拠して水源を絶ち、その間に城を攻め落とす
- 同年、堂洞城攻めでは本丸に一番乗りし岸信周を自害に追い込む戦功を挙げる
- 同年、一連の戦功で猿啄城を与えられ勝山城と名を改める
- 1569年、伊勢北畠氏の大河内城攻めに従軍する
- 1570年、姉川の戦いに従軍し、本戦後の磯野員昌が籠城する佐和山城攻めでは西彦根山に陣を敷いた
- 同年、志賀の陣では佐久間信盛・明智光秀らと共に穴太の砦に入る
- 1571年、磯野員昌が退去した後の佐和山城に入城する
- 同年、織田信長の比叡山焼き討ちに従軍し、丹羽長秀と共に湖東三山の西明寺を焼き討ちする
- 1572年、織田信長に対して武田信玄が敵対すると織田信広と共に、岩村城を占拠して信長の息子・織田勝長を岩村遠山氏の養子に据える
- 1573年、若江城の戦いで佐久間信盛と共に、足利義昭に与した三好義継を攻めて自害に追い込む
- 1574年、前年に元服を終えた織田信長の嫡男・織田信忠付きの武将となり以後信忠を補佐する
- 同年、武田氏の侵攻を抑えるため神箆城の守備を任じられる
- 1575年、長篠の戦いでも織田信忠を補佐し、信忠に代わって指揮を執る
- 同年、岩村城の戦いで戦功を挙げると戦後に岩村城5万石を与えられる
- 1579年、織田信忠に従い荒木村重の摂津有岡城攻めに従軍する
- 1580年、織田信長から安土城下・下豊浦に屋敷を与えられる
- 1582年、織田信長の甲州攻めに従軍し、国境を守る滝沢の城番下条信氏の家老衆を調略で寝返らせると、岩村口から武田領に進軍する。その後、高遠城攻めでは主力として戦い、滝川一益の軍勢と共に逃れた武田勝頼・信勝父子を討ち取る
- 同年、甲州攻めの論功行賞では穴山信君の河内領を除く甲斐22万石と信濃諏訪郡を与えられる
- 同年、本能寺の変が起きると旧武田領の各地で旧武田家臣による国人一揆が勃発する。森長可・毛利長秀が美濃へ帰還するが、滝川一益と共に領内に残る。しかし集まった旧武田家臣団の襲撃に遭い、岩窪で三井弥一郎に討ち取られる、もしくは自害する。享年56