生年 | 1543年または1548年 |
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没年 | 1614年 |
主君 | 織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
拠点・知行 | 伊勢安濃津城 |
官位・役職 | 従三位、上野介、民部大輔、左中将 |
幼名 | |
法名 | 老犬斎 |
別名 | 信良、信兼、信廉、三十郎 |
織田信包の家族構成
父 | 織田信秀 |
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母 | 土田御前(佐々木六角氏後裔土田政久の娘)? |
兄弟 | 信広、信長、信行、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利 |
正室 | 長野藤定の娘 |
側室 | 神戸長盛の娘 |
子 | 信重、寿圭、信則、信当 |
親族 |
織田信包の逸話
織田信包の生涯
- 1543年、もしくは1548年、生誕
- 1568年、兄・織田信長の命令で北伊勢・長野工藤氏の養子となり、伊勢上野城を居城とするが、後年、同じく信長の命令で養子縁組を解消し、織田家に戻る
- 1569年、伊勢大河内城が落ちて北畠家が兄・織田信長に臣従すると、信長より伊勢安濃津城主に任じられる
- 1575年、越前一向一揆の鎮圧に従軍する
- 1577年、紀州攻めに従軍する
- 1582年、本能寺の変以降は豊臣秀吉に従属する
- 1583年、甥・織田信孝と対立し、柴田勝家や滝川一益を退ける
- 1590年、小田原攻めではに北条氏政・氏直父子の助命を嘆願し秀吉を激怒させる
- 1594年、検地によって石高が増えたのに、務めを果たさなかったという理由で改易され、剃髪して老犬斎と名乗り京都・慈雲院へ隠居する
- 1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、丹後田辺城攻撃などに従軍するが、戦後は徳川家康から罪に問われず所領を安堵される。以降は大阪城で豊臣秀頼を補佐する
- 1614年、大坂冬の陣直前に大坂城内で急死する。享年72