藤原伊周(ふじわらのこれちか)|三浦翔平
生年 | 974年 |
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没年 | 1010年 |
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氏族 | 藤原北家中関白家 |
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官位 | 正二位・内大臣 |
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職業 | 公卿 |
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法名 | なし |
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別名 | 小千代、帥内大臣、儀同三司 |
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藤原伊周の家族構成
藤原伊周の概要
藤原伊周の逸話
- 母譲りの漢学の才能があり、一条天皇に漢学の抗議をしていた
藤原伊周の生涯
- 974年、生誕
- 985年、元服し、従五位下に叙任される
- 986年、一条天皇の即位式の日に昇殿を許され、更に侍従・左兵衛佐に任じられる
- 987年、正五位下・左近衛少将に叙任・任官される
- 988年、従四位下に叙任される
- 989年、従四位上に叙任される
- 990年、祖父・藤原兼家の後をついで父・藤原道隆が摂政に就任し、妹・藤原定子が中宮となると摂関家の嫡男としてその地位は飛躍的に昇格する。
- 同年、右近衛中将・蔵人頭となる
- 991年、参議に任じられ、公卿に列する
- 同年、従三位に叙任され、異母兄・藤原道頼と共に権中納言に昇進する
- 992年、兄・藤原道頼を上回る正三位・権大納言に叙任・任官される
- 994年、左大臣・源雅信が死去すると若干21歳で内大臣となる
- 995年、最大の後ろ盾だった父・藤原道隆が糖尿病の悪化により死去する
- 同年、17日間の関白の不在を経て、道隆の弟・藤原道兼が関白・藤氏長者に就任するが、すでに疫病に侵されていた道兼は間もなく死去し、叔父・藤原道長と関白の座を巡って争う。しかし、一条天皇の母である東三条院・藤原詮子が一条天皇を説得もあり、道長が右大臣に任じられ、藤氏長者及び天下執行の宣旨を得る
- 996年、自分の思い人の為光三女の元に花山法皇が通うと誤解し、弟・藤原隆家と共に襲う、長徳の変を起こす。これを藤原道長に利用され、自身は大宰権帥に、弟・藤原隆家は出雲権守に左遷される
- 997年、東三条院・藤原詮子の病状が回復しないこともあり、女院御悩による大赦が発令されると弟・藤原隆家と共に赦され帰京する
- 1003年、従二位に叙任される
- 1005年、座次を大臣の下・大納言の上となる准大臣に定められ、改めて昇殿を許される
- 1007年、弟・藤原隆家と共に伊勢の武士・平致頼を使って大和・金峰山へ参詣中の藤原道長暗殺を企てていると言う噂が流れるが、実行されず、道長は無事に帰京する
- 1008年、准大臣に任じられ発言権も得るが、藤原彰子が一条天皇の第二皇子・敦成親王を出産したことは甥・敦康親王の即位を望む伊周にとって致命的な打撃となる
- 1009年、正二位に叙任されるが、中宮・藤原彰子と敦成親王への呪詛が発覚し、叔母・高階光子が入獄させられ、自身も朝参を止められるが後に許される
- 1010年、失意のまま死去する。享年37
光る君への藤原伊周