日本の副王
三好 長慶(みよし ながよし)
生年 | 1522年 |
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没年 | 1564年 |
主君 | 阿波三好家当主 |
拠点・知行 | 山城、摂津、阿波 |
官位・役職 | 伊賀守、筑前守、従五位下、従四位下・修理大夫 |
幼名 | 千熊丸 |
法名 | |
別名 | 利長、範長、仙熊、孫次郎、三筑、日本の副王 |
家族構成
父 | 三好元長 |
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母 | 慶春院 |
兄弟 | 長慶、実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長 |
正室 | 波多野秀忠の娘 継室:遊佐長教の娘 |
側室 | |
子 | 義興 養子:義継(十河一存の子) |
親族 |
逸話
生涯
- 1522年、生誕
- 1532年、父・三好元長が細川晴元・三好政長・木沢長政らの策略で蜂起した一向一揆によって、殺害される
- 1533年、細川晴元らが先導した一向一揆は勢力を増し享禄・天文の乱となるが一向一揆と晴元の和睦を仲介する。この直後に元服し、孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称する
- 同年、一揆勢が和睦に応じなかったため、応戦して摂津越水城を奪回する
- 1534年、本願寺に与して細川晴元軍と戦い、続いて三好政長と戦うが若年であり、河内守護代・木沢長政の仲介もあり許されて晴元の下へ帰参する
- 1536年、摂津中島の一揆を攻撃し敗北するが、木沢長政・三好政長の援護を受けて反撃し、一揆勢を全滅させる
- 1539年、細川晴元の供をした際、織田信長の父である尾張・織田信秀から前年に献上されていた鷹を与えられる
- 15540年頃、丹波・波多野秀忠の娘である波多野氏を正室に迎える
- 1541年、利長から範長と名を改める
- 同年、三好政長と共謀して摂津国人・上田某を攻めて自害に追い込み城を奪う
- 同年、伊丹軍が居城である越水城に攻め入るが撃退し、逆に富松城を攻め落とす
- 1542年、木沢長政が細川晴元に反旗を翻し、太平寺の戦いが起きると河内守護代・遊佐長教を三好政長と共に援護し、長政を討つ
- 1543年、細川氏綱が畠山稙長の支援で細川高国の旧臣を集め、堺に攻め込んだため、細川晴元の命令で氏綱と戦う
- 1545年、細川高国派の上野元全らが氏綱に呼応したため、細川晴元が大軍を率いて出兵するとそれに従い、山城宇治田原で戦う
- 1546年、畠山政国と遊佐長教が細川氏綱を援助し、第12代将軍・足利義晴と連携して細川晴元排除に動くと、晴元と共に窮地に追い込まれる。しかし、実弟・三好実休や安宅冬康と四国の援軍が到着すると一気に挽回し摂津を奪還する
- 1547年、舎利寺の戦いで細川氏綱・遊佐長教に勝利する
- 1548年、遊佐長教の娘・遊佐氏を継室に迎える
- 同年、孫次郎範長から筑前守長慶に名を改める
- 同年、細川晴元に三好政長父子の追討を願い出たが、聞き入れられなかったため、かつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び晴元に反旗を翻すと河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝の籠る榎並城を包囲する
- 1549年、自ら出陣し、三好政長と江口の戦いが起き、政長を含め800名余りを討ち取る。戦後、細川晴元と三好政勝が摂津から逃亡すると細川氏綱を擁立する
- 1550年、細川晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定し、三好政権が誕生する
- 同年、将軍・足利義晴が中尾城を築き、義晴が死去すると息子・足利義輝が細川晴元と共に徹底抗戦の構えを見せると近江に軍を派遣して揺さぶりをかけ、中尾城の戦いが起きる。退路を断たれることを懸念した義輝が中尾城に火を放ち、堅田へ逃亡する
- 1551年、2度にわたって暗殺未遂事件に遭う
- 同年、足利・細川方から京都奪還を目指して三好政勝・香西元成が相国寺に陣取ったので、松永久秀と弟・松永長頼に迎撃を命じ、相国寺の戦いが起きる。松永兄弟は4万の大軍で相国寺を包囲し、政勝・元成を敗走に追い込む
- 1552年、六角定頼と六角義賢の働きで相国寺の戦いの和睦が成立する
- 1553年、将軍・足利義輝が和睦を破り、東山霊山城の戦いが起きるが、与力・今村慶満の活躍で東山霊山城は落城し、義輝は近江朽木に逃亡する
- 1558年、足利義輝が京都奪還を狙い、北白川の戦いが起きるが、叔父・三好康長と3人の弟・三好実休・安宅冬康・十河一存の援護を受け戦力的に優位に立つと、六角義賢は義輝を援助しきれないと判断し和睦を提案する
- 1559年、織田信長が上洛するが、面会せずに帰国する
- 1560年、室町幕府・相伴衆に任命される
- 同年、居城を芥川山城から飯盛山城へ移す
- 同年、支援し守護に復帰した畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して安見宗房を守護代にすると高政の背信に激しく怒り、東大阪市一帯で畠山軍と戦って討ち破る
- 1561年、将軍・足利義輝を自らの屋敷に迎えると後日、義輝の勧告で細川晴元とも和睦する
- 同年、弟・十河一存が急死する
- 1562年、十河一存の死去に伴い和泉支配が脆弱になり、この隙に畠山高政と六角義賢が進軍して久米田の戦いが起きると弟・三好実休が討ち取られる
- 同年、教興寺の戦いでは嫡男・三好義興と松永久秀の奮戦で畠山軍に大勝して畠山高政を追放する
- 1563年、嫡男・三好義興が22歳で死去したため、弟・十河一存の息子・義継を養子に迎える
- 1564年、飯盛山城で病死する。享年43
三好長慶の兄弟
三好 実休(みよし じっきゅう)
生年 | 1527年? |
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没年 | 1562年 |
主君 | 細川晴元→細川持隆→三好長慶 |
拠点・知行 | 阿波 |
官位・役職 | 豊前守 |
幼名 | 千満丸 |
法名 | 実休、物外軒 |
別名 | 彦次郎、之相、之虎、義賢 |
家族構成
父 | 三好元長 |
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母 | 慶春院 |
兄弟 | 長慶、実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長 |
正室 | 久米義広の娘 継室:小少将(大形殿。岡本牧西の娘) |
側室 | |
子 | 長治、十河存保 養子:安宅清康 |
親族 |
逸話
生涯
- 1527年頃、生誕
- 1539年、仕えていた阿波細川家当主・細川持隆に従い、河野氏との合戦に三好家の責任者として参陣する
- 1544年、兄・三好長慶に従い京都に入る
- 1545年頃、豊前守を名乗る
- 1547年、兄・三好長慶らと共に舎利寺の戦いで細川氏綱・遊佐長教に勝利する
- 1553年、細川持隆を見性寺で自害に追い込むとその子・細川真之を阿波細川家の当主として擁立する。しかしこれに反対する久米義広との間に鑓場の戦いが起きるがこれも討ち破る
- 1558年、北白川の戦いでは四国勢を率いて従軍する
- 1560年、兄・三好長慶と共に河内守護・畠山高政と安見宗房を破り、河内の守護を任される
- 1562年、畠山高政との間に起きた久米田の戦いで討死する。享年36
安宅 冬康(あたぎ ふゆやす)
生年 | 不明 |
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没年 | 1564年 |
主君 | 三好長慶 |
拠点・知行 | 淡路 |
官位・役職 | 摂津守 |
幼名 | 千々世 |
法名 | 一舟軒 |
別名 | 鴨冬、宗繁、神太郎 |
家族構成
父 | 三好元長 養父:安宅氏 |
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母 | |
兄弟 | 長慶、実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長 |
正室 | |
側室 | |
子 | 新太郎(信康?)清康 |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明
- 1558年、北白川の戦いに従軍する
- 1562年、畠山高政との久米田の戦いで兄・三好実休が討死するが、後の教興寺の戦いで高政に勝利する
- 1564年、兄・三好長慶に飯盛山城に呼び出され、自害させられる
十河 一存(そごう かずまさ)
生年 | 不明 |
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没年 | 1561年 |
主君 | 三好長慶 |
拠点・知行 | 讃岐 |
官位・役職 | 民部大夫 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 孫六郎、鬼十河 |
家族構成
父 | 三好元長 養父:十河景滋 |
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母 | |
兄弟 | 長慶、実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長 |
正室 | 九条稙通の娘 |
側室 | |
子 | 三好義継、松浦孫八郎、存之? 養子:存保 |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明
- 1549年、父の仇・三好政長との間に起きた摂津江口の戦いで戦功を挙げ、勝利に貢献する
- 1550年、中尾城の戦いで京都奪還を狙う細川春元を兄・三好長慶と共に破る
- 1553年、次兄・三好実休と協力して細川持隆を殺害する
- 1558年、北白川の戦いに従軍する
- 1560年、畠山高政と安見宗房との戦いで大将すると長兄・三好長慶から岸和田城主に任じられる
- 1561年、病のため和泉で急死する
野口 冬長(のぐち ふゆなが)
生年 | 不明 |
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没年 | 1553年 |
主君 | 三好長慶 |
拠点・知行 | 淡路 |
官位・役職 | |
幼名 | |
法名 | |
別名 |
家族構成
父 | 三好元長 |
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母 | |
兄弟 | 長慶、実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長 |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
- 生年不明、淡路志知・野口氏の養子に入って家督を継ぎ、淡路を拠点に播磨から讃岐にかけて、本州と四国を取り持つ役割を果たす
- 1553年、次兄・三好実休が主君・細川持隆を殺害した際に持隆家臣との間に起きた、鑓場の戦いで戦死する
三好長慶の息子
三好 義興(みよし よしおき)
生年 | 1542年 |
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没年 | 1563年 |
主君 | 阿波三好家当主 |
拠点・知行 | 摂津芥川城 |
官位・役職 | 従四位下・筑前守 |
幼名 | |
法名 | |
別名 | 慶興、義長、孫次郎 |
家族構成
父 | 三好長慶 |
---|---|
母 | 波多野秀忠の娘 |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | 義資? |
親族 |
逸話
生涯
- 1542年、生誕
- 1552年、元服し、孫次郎慶興と名乗る
- 1559年、父・三好長慶と共に上洛し、将軍・足利義輝に謁見し仕える
- 同年、義輝から義を賜って義長と名乗る
- 1560年、従四位下・筑前守に叙位・任官され、父・三好長慶が河内飯盛山城に移ると、摂津芥川山城を任される
- 1561年、御供衆・相伴衆に任じられる
- 同年、将軍地蔵山の戦いで松永久秀と共に六角義賢と戦う
- 1562年、久米田の戦いで畠山高政に叔父の三好実休が敗れ、松永久秀と共に山崎に陣を敷く。その後、教興寺の戦いで畠山軍に大勝する
- 1563年、病に罹り、芥川山城で病死する。享年22
ボンバーマン
松永 久秀(まつなが ひさひで)
生年 | 1508年 |
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没年 | 1577年 |
主君 | 三好長慶→三好義継→足利義昭→織田信長 |
拠点・知行 | 大和信貴山城 |
官位・役職 | 従四位下・弾正忠、山城守、弾正少弼 |
幼名 | |
法名 | 道意 |
別名 | 霜台、松永弾正 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | 久秀、長頼、孫六、孫四郎、野間長久室の父 |
正室 | 松永女房 継室:広橋保子(広橋兼秀の娘) |
側室 | |
子 | 久通、千少庵? |
親族 |
逸話
生涯
- 1508年、生誕
- 1533年、もしくは1534年、三好長慶の書記として仕える
- 1542年、三好軍の指揮官として大和国人を討伐するため、山城南部に進軍する
- 1549年、三好長慶が細川晴元と室町幕府第13代将軍・足利義輝を近江へ追放して京都を支配した後、公家や寺社と衝突した際に仲介をする役割を、三好長逸と共に果たすようになる
- 1551年、相国寺の戦いで細川晴元方の三好政勝・香西元成を弟・松永長頼と共に討ち破る
- 1553年、三好長慶が畿内を平定すると摂津滝山城主に任じられる
- 同年、波多野秀親の籠る丹波・数掛山城を長頼と共に攻めるものの、波多野氏の救援に現れた三好政勝・香西元成に背後から急襲され敗走する
- 1555年、六角義賢の家臣・永原重興に送った書状の中で、第13代将軍・足利義輝を糾弾している
- 1556年、奉行衆に任命され、三好長慶と共に堺で三好元長の二十五回忌に参加する
- 1558年、近江から京都郊外・東山へ進軍した足利義輝・細川晴元と三好長慶の間に北白川の戦いが起きると吉祥院に陣を敷き、弟・松永長頼や三好長慶の弟らと圧力をかけ六角義賢の仲介で和睦が成立する
- 1559年、三好長慶が鞍馬寺で開催した花見に参列する
- 同年、長慶の命令で大和へ進軍し、筒井順慶の本拠地・筒井城を落城させ追い払う
- 1560年、興福寺を破り大和を統一し、三好長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・足利義輝から御供衆に任じられ、弾正少弼に任官される
- 1561年、従四位下に叙任される
- 同年、三好義興が将軍・足利義輝を邸宅に招いた際、三好家の人間として義輝と側近達を接待する
- 同年、将軍地蔵山の戦いで三好義興と共に六角義賢と戦う
- 1562年、教興寺の戦いで三好長慶と共に畠山高政を討ち破り、紀伊へ追い払う
- 同年、大和と山城の国境付近に多聞山城を築城し移住する
- 1564年、安宅冬康・三好長慶が相次いで死去すると、三好長逸・三好宗渭・岩成友通ら三好三人衆と共に長慶の甥・三好義継を支える
- 1565年、息子・松永久通と三好義継・三好三人衆と共に永禄の変で将軍・足利義輝を急襲して殺害する
- 同年、弟・松永長頼が丹波で討たれるとこの頃から畿内の支配権をめぐり、三好三人衆と対立するようになる
- 1566年、三好三人衆が新たに担ぎあげた第14代将軍・足利義栄から討伐命令を出されると三好康長や安宅信康も三好三人衆側に付き、家中で孤立し始める
- 同年、畠山高政・安見宗房と同盟を結び、根来衆ともつながり勢力の回復を図るが上芝の戦いで三好三人衆に敗北し、逃亡する
- 1567年、三好三人衆のもとから三好義継が金山信貞の手引きで出奔してきたため信貴山城に戻る
- 同年、東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆が在陣していた東大寺の奇襲に成功する
- 1568年、信貴山城の戦いで三好三人衆に信貴山城を落とされる
- 同年、織田信長の上洛に協力し茶器・九十九髪茄子を差し出す
- 1570年、織田信長の朝倉義景討伐に従軍し、金ヶ崎の戦いで信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退すると近江朽木谷領主・朽木元綱を説得で味方につけ信長の危機を救う
- 同年、信長と三好三人衆の和睦交渉を仲介し、娘を信長の養女とし和睦をまとめる
- 1571年、畠山秋高の家臣・安見右近を奈良に招いて殺害すると本拠地・交野城を攻める
- 1573年、将軍・足利義昭が織田信長と決別し挙兵すると、三好義継と共に正式に義昭と和睦する
- 同年、義昭が槇島城の戦いで信長に敗れて追放され、義継も若江城の戦いで信長家臣・佐久間信盛に敗れ討死する。自身も織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏する
- 1577年、将軍・足利義昭や毛利輝元、上杉謙信、石山本願寺などの反織田信長勢力に呼応して、本願寺攻めから離脱し、信貴山城に籠城し信長に反旗を翻す。信長は嫡男・織田信忠を総大将とした10万の軍勢を送り込み城を包囲する。追い込まれると名器・古天明平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ、爆死する。享年68