【備前宇喜多家】宇喜多直家と家族・家臣一覧

    備前宇喜多家のアイキャッチ画像

    謀聖

    宇喜多 直家(うきた なおいえ)

    出典:Wikipedia:宇喜多直家の木像
    生年1529年
    没年1581年
    主君浦上宗景→毛利輝元→織田信長
    拠点・知行備前岡山城
    官位・官職
    幼名
    法名
    別名八郎、三郎右衛門尉、和泉守、謀聖

    家族構成

    宇喜多興家?
    阿部善定の娘?
    兄弟直家、春家、忠家
    正室中山勝政の娘?
    継室:円融院
    側室
    三浦桃寿丸、秀家
    養子:基家(宇喜多春家の子)
    親族

    逸話

    生涯

    • 1529年、生誕
    • 1531年または1534年、祖父・宇喜多能家が暗殺されて宇喜多家の家督が大和守家に移り、父・宇喜多興家と共に放浪の旅を送るが、興家も島村家との争いで死去する
    • 1566年、美作へ進軍した備中・三村家親を阿波の浪人・遠藤俊通・秀清兄弟を使って鉄砲で暗殺する
    • 1567年、明善寺合戦で備前西部に勢力を伸ばしていた備中勢の駆逐をほぼ完遂し、その後も金川城主・松田元輝・元賢親子、さらに岡山城主・金光宗高などを追い落とし、浦上家でも随一の権力者となる
    • 1569年、将軍・足利義昭や織田信長、西播磨の赤松政秀と結び、将軍に従わない主君・浦上宗景に謀反を起こす。しかし政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆・孝高親子に敗北すると、義昭の仲裁で和睦し浦上氏から独立を果たす
    • 1574年、足利義昭が織田信長に追放されると、信長と繋がっていた浦上宗景と再度対立する。調略で美作や備前国内の宗景配下の武将の離反を扇動し、更には宗景と犬猿の仲だった安芸の毛利家と繋がり、軍事面での不利を覆す
    • 1575年、毛利家の三村氏攻撃に助力する
    • 同年、天神山城の戦いで、浦上宗景の腹心であった明石行雄らを内通させ、宗景を播磨へ退ける
    • 1578年、浦上家の残党が蜂起し幸島を占領すると制圧に数ヵ月を要した
    • 1579年、織田信長に内通した後藤勝基を滅ぼす
    • 同年、毛利家と手を切り、信長に臣従し、以降は毛利家と合戦を繰り返す
    • 1581年、毛利家との合戦の最中に悪性の腫瘍のため、岡山城で病死する。享年53

    宇喜多直家の兄弟

    宇喜多 春家(うきた はるいえ)

    生年不明
    没年不明
    主君宇喜多直家→宇喜多秀家
    拠点・知行備前砥石城
    官位・役職河内守
    幼名
    法名
    別名六郎兵衛、与六郎

    家族構成

    宇喜多興家
    阿部善定の娘
    兄弟直家、春家、忠家
    正室
    側室
    基家?
    親族

    逸話

    生涯

    • 生年不明
    • 1559年、島村盛実・浮田国定に奪われた砥石城を奪還すると城主に任命される
    • 1568年、備前・金山城に入る
    • 1573年、亀山城主となる
    • 1581年、宇喜多直家の死後も宇喜多忠家と共に宇喜多秀家を補佐する
    • 同年、毛利家の忍山城侵攻の際には金山城を守り抜く
    • 没年不明

    宇喜多 忠家(うきた ただいえ)

    宇喜多忠家の肖像画
    出典:Wikipedia:宇喜多忠家像(岡山県立博物館蔵)
    生年1533年
    没年1609年?
    主君宇喜多直家→宇喜多秀家
    拠点・知行備前富山城
    官位・役職従五位下・出羽守、式部卿法印
    幼名
    法名安津、安心、閑斎
    別名七郎兵衛

    家族構成

    宇喜多興家
    阿部善定の娘
    兄弟直家、春家、忠家
    正室
    側室
    基家、知家
    親族

    逸話

    生涯

    • 1533年、生誕
    • 1575年、兄・宇喜多直家と共に備前・金山寺を復興させる
    • 1578年、上月城の戦いでは病に倒れた兄・宇喜多直家に代わって宇喜多軍の総大将を務める。戦後、宇喜多家は毛利家と袂を分かつ
    • 1580年、辛川崩れで小早川隆景率いる毛利軍に勝利する
    • 1582年、兄・宇喜多直家が病死し、嫡男・宇喜多秀家が家督を継ぐが、秀家はまだ10歳であったため、後見人として補佐する
    • 同年、備中高松城の戦いでは羽柴秀吉方の黒田孝高らと堤防工事を行い勝利に貢献し、毛利家との和睦交渉で所領を画定する
    • 1584年、羽柴秀吉の推挙で出羽守に就任する
    • 1585年頃、出家し式部卿法印と名乗る。この頃、羽柴秀吉の直臣に取り立てられると、嫡男・宇喜多知家に家督を譲る
    • 1586年頃、豊臣秀吉側近の大村由己・楠木正虎らと大阪で交流し、連歌会へ参加する
    • 1592年、文禄の役では宇喜多秀家の後見役として朝鮮へ渡る
    • 1599年、主君・宇喜多秀家、家老・戸川達安、嫡男・宇喜多知家などが対立した宇喜多騒動が起きると大阪で隠居する
    • 1604年、病に倒れ、曲直瀬玄朔の診察を受ける
    • 1609年、大阪で死去する。享年77

    五大老・備前中納言

    宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)

    出典:Wikipedia:宇喜多秀家像(岡山城蔵)
    生年1572年
    没年1655年
    主君織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼
    拠点・知行備前岡山城
    官位・官職従三位・侍従、参議、左近衛権中将
    権中納言
    幼名
    法名成元、休復、久福
    別名家氏、羽柴秀家、豊臣秀家、八郎、備前宰相

    家族構成

    宇喜多直家
    円融院
    兄弟三浦桃寿丸、秀家
    正室豪姫(前田利家の娘、豊臣秀吉の養女)
    側室
    秀高、秀継、秀規?、秀行?、太兵衛?
    親族

    逸話

    生涯

    • 1572年、生誕
    • 1581年、父・宇喜多直家が病死し、家督を継ぐ
    • 1582年、宇喜多家が当時従属していた織田信長から本領を安堵される
    • 同年、本能寺の変が起き織田信長が死去すると、羽柴秀吉と毛利輝元は和睦し、この際の所領安堵で備中東部から美作・備前を領有する大名となり、毛利家の監視役を務める
    • 1584年、小牧・長久手の戦いでは雑賀衆から大坂城を守る
    • 1585年、紀州攻め、続いて四国攻めに従軍する
    • 1586年、毛利輝元・宮部継潤・藤堂高虎と共に九州攻めに従軍する
    • 1587年、豊臣秀吉から豊臣姓と羽柴氏を与えられる
    • 1588年頃、豊臣秀吉の養女で前田利家の娘・豪姫を正室にする
    • 1590年、小田原攻めに従軍する
    • 1592年、文禄の役で渡海する
    • 1593年、碧蹄館の戦いで小早川隆景らとともに李如松が率いる明軍を破る
    • 1594年、朝鮮での戦功で参議から従三位・権中納言に昇叙される
    • 1597年、慶長の役では毛利秀元と共に再度朝鮮へ渡り、南原城を攻略し順天倭城を築城する
    • 1598年、日本へ帰国すると豊臣秀吉から五大老に任じられる
    • 1599年、朝鮮出兵で悪化した財政再建のための増税や重臣・戸川達安・岡貞綱らから求められた中村次郎兵衛の処分を拒んだことなどが原因で宇喜多騒動が起こる
    • 大谷吉継と榊原康政が調停を請け負うが解消されず、最期は徳川家康が裁き騒動は終息した
    • 同年、石田三成襲撃事件が起きると佐竹義宣とともに三成を救出する
    • 1600年、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将として東軍の福島正則と戦うが、小早川秀秋の裏切りに遭い西軍は総崩れになる
    • 戦後、宇喜多家は改易されるが自身は伊吹山へ逃亡すると、同じく西軍だった島津義弘などを頼って薩摩に落ち延びる
    • 1603年、島津家が秀家を保護しているという噂が広まったため、島津忠恒によって徳川家康の元へ身柄が引き渡される。島津忠恒や前田利長の懇願で死罪は免れ、駿河・久能山へ幽閉される
    • 1606年、八丈島へ流される
    • 1616年、刑が解かれ、前田利常から前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、これを断ったとされる
    • 1655年、死去する。享年84

    宇喜多直家の息子

    三浦 桃寿丸(みうら とうじゅまる)

    生年1561年?
    没年1584年
    主君宇喜多直家
    拠点・知行備前
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名宇喜多家勝?

    家族構成

    三浦貞勝
    円融院
    兄弟三浦桃寿丸、秀家
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 1560年頃、生誕とされる。備中松山城主三村家親に父・三浦貞勝が自害に追い込まれ母・円融院と共に備前へ逃れる。その後、円融院が宇喜多直家の室となり直家に育てられる
    • 1572年、義弟・宇喜多秀家が産まれる
    • 1582年、宇喜多秀家と共に羽柴秀吉に拝謁する
    • 1584年、京都に上った際に地震に遭い死去する。享年23とされる