【総州畠山家】畠山在氏と家族・家臣一覧

    【家紋 足利二つ引】

    畠山家は大きく分けて桓武平氏系と清和源氏系があり、後者が奥州畠山家と金吾畠山家に別れ、さらに金吾畠山家から別れて総州畠山家と尾州畠山家が興った。

    鎌倉初期の著名な武将である畠山重忠は、桓武平氏系である。

    清和源氏系畠山家は室町将軍足利家一門であり、一門の中でも別家扱いとされる斯波家に次いで高い序列を誇っており、細川家などの家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けていた。

    畠山持国(徳本)が当主の時、応仁の乱の一因となる、持国の子の畠山義就と、持国の甥の畠山政長の間で激しい家督争いが起こる。

    この義就が総州畠山家の祖である。

    総州というのは義就の官途である上総介から称したものである。

    政長の尾州畠山家とは宿敵の間柄である。

    河内、大和を拠点とした。

    義就→政国(義就猶子)→義豊(義就次男)→義英(義豊嫡子)と続く。

    目次

    総州畠山家一門

    畠山 義英(はたけやま よしひで)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 1487年もしくは1488年、生誕。
    • 1494年、元服。
    • 1499年、父、義豊が畠山尚順に敗れ戦死したため家督を相続する。当初は後ろ盾であった細川政元の傀儡となっていたが、尚順と手を結び独立する。
    • 1506年、政元の家臣、赤沢朝経の侵攻により没落。
    • 1507年、政元が暗殺されると、高屋城を巡って尚順と対立。一進一退を繰り返すが、1521年に尚順の嫡子、畠山植長に敗れた記録が残っている。
    • 1522年、没したと思われるが詳細は不明。

    畠山 義堯(はたけやま よしたか)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 生年不明。
    • 1522年頃、家督を相続する。
    • 1526年、細川高国が失脚した際、管領となったとされる。
    • 1527年、細川晴元が擁する堺公方、足利義維に従い上洛。細川高国や朝倉宗滴と争う。
    • 1528年、柳本賢治と結び、畠山植長に対し優勢となるも、1530年、高国と浦上村宗によって賢治は討たれ再び形勢は逆転する。が、翌1531年、大物崩れにおいて三好元長とともに高国、村宗を討つ。しかし、元長の主君、細川晴元は義堯、元長を警戒し木沢長政と連合、さらに植長も連合に加わる。
    • 1532年、元長とともに飯森山城の長政を攻めるが、援軍の一向一揆に敗れ自刃。

    畠山 在氏(はたけやま ありうじ)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 生没年不明。
    • 1532年頃、兄、義堯を裏切った木沢長政に擁立され家督を相続する。実権を握る長政に対抗するべく尾州畠山家と手を結ぶ。
    • 1541年、長政が細川晴元に叛き、1542年に太平寺の戦いで敗れ戦死する。
    • 1542年、晴元の幕府軍の攻撃を受け、居城の飯森山城は陥落するが、河内、大和、紀伊で一定の勢力を維持していた。後に晴元に帰参を許されるが、1549年、細川氏綱、三好長慶、遊佐長教の連合軍に敗れ没落。家督は尚誠に譲りその後の消息は不明。
    • 1555年、存命を確認できる記録が残っている。

    畠山 尚誠(はたけやま ひさまさ)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 1531年、生誕。
    • 1549年までに、家督を相続したと思わる。河内奪還を試みるが尾州畠山家と三好長慶に阻まれ没落の一途を辿る。
    • 1565年、一乗院覚慶(足利義昭)からの求めがあったとされるが、以降の消息は不明。尾州畠山家に仕えたともいわれる。

    総州畠山家の武将

    木沢 長政(きざわ ながまさ)

    生年
    没年
    主君
    拠点・知行
    官位・役職
    幼名
    法名
    別名

    家族構成

    兄弟
    正室
    側室
    親族

    逸話

    生涯

    • 1491年、生誕か。
    • 総州畠山家に仕えながら、自身の勢力拡大のため、細川京兆家当主の細川晴元に接近し、その被官となる。
    • 1531年、大物崩れにて晴元、畠山義堯とともに堺公方と結束し勝利するが、その後の晴元の方針と相容れない義堯、三好元長が対立すると、長政は晴元に加勢する。
    • 1532年、晴元は一向一揆勢に要請し、義堯、元長勢へ攻撃させると、両名を自刃へと追い込むが、一揆勢はそのまま大和へ侵攻、興福寺など他宗派との騒乱を起こす。長政は管領となった晴元や管領代、茨木長隆の命で鎮圧を行うと、山城南部の守護代に任じられる。また、この時点でも総州畠山家の被官という立場は継続しており、尾州畠山家の遊佐長教とも結び、両畠山家内での勢力をも強め、畿内の実力者となる。
    • 1541年、権力を握り増長した長政は晴元に反旗を翻すが次第に孤立、1542年、晴元、長教、三好長慶に攻められ、太平寺の戦いで戦死。
    目次