目次
鬼石曼子
島津 義弘(しまづ よしひろ)

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主君 | |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
幼名 | |
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別名 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
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子 | |
親族 |
逸話
生涯
- 1535年、島津貴久の次男として生誕。
- 1554年、岩剣城にて初陣を飾る。
- 1557年、大隅国の蒲生氏を攻めた際に初めて首級を挙げるが、自身も5本の矢を受け重症を負う。
- 1560年、日向国・伊東義祐の攻撃から救うという目的で島津忠親の養子となり飫肥城に入る。
- 1562年、薩摩国本家が肝付氏に攻撃され帰還。養子縁組は白紙となり、飫肥城も陥落する。
- 1564年、飯野城を居城とする。
- 1566年、伊東義祐が建設中の三ツ山城を、兄・義久、弟・歳久と共に攻め落とそうとするも失敗、重症を負い撤退する。
- 家督を継いだ兄・義久を補佐する
- 1572年、木崎原の戦いにおいて、3千の大軍を率いた伊東義祐に対し3百の寡兵で勝利。
- 1577年、伊東義祐を日向から追放する。
- 1578年、耳川の戦いにおいて、豊後国・大友氏に勝利。
- 1585年、肥後国・相良氏に代わり、肥後国の守護代として八代に入り阿蘇氏を攻め降伏させる。
- この頃、義久に代わり島津軍の総大将として指揮を執り武功を挙げることも多かった。
- 1587年、根白坂の戦いにおいて、豊臣秀吉の九州平定軍を相手に、自ら敵陣に切り込むほどの奮戦を見せるも、兵力で豊臣軍に及ばず敗北。
- 義久が降伏した後も徹底抗戦を主張したが、義久の説得により、子の久保を人質として差し出し降伏、秀吉から大隈領を所領安堵されている。
- 1588年、上洛し、羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜され、従五位下侍従に叙任される。
- 1592年、文禄の役に参陣、四番隊に所属し1万人の軍役を命ぜられるも、大隈国での梅北一揆などで軍役動員が遅れ、「日本一の遅陣」と嘆く。
- 1597年、慶長の役に参陣、漆川梁海戦において、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均を討ち取る。
- 1598年、泗川の戦いにおいて、薫一元率いる3万とも言われる大軍を7千人の寡兵で勝利する。
- 同年、露梁海戦において、立花宗茂らとともに順天城に孤立した小西行長軍救出の為に出撃、明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げ、小西軍の退却に成功する。
- 朝鮮軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」=「鬼島津」と恐れられる。
- 1599年、島津氏家中最大の内乱である庄内の乱が起こる。
- 1600年、関ケ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いにおいて西軍に加わる。
- 同年、関ケ原の戦いに参陣。小早川秀秋の寝返りにより西軍が敗走を始めた結果、島津隊は退路を遮断され敵中に孤立する。この時、義弘は切腹を決意するも甥・豊久の説得を受けて翻意し、旗指物や合印などを捨て、決死の覚悟で敵陣を正面突破、「捨て奸」と呼ばれる戦法で豊久ら多くの将兵犠牲にして退却する。後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、井伊直政や松平忠吉を負傷させ、敵中突破に成功する。
- 同年、軍備を増強し続ける島津家の態度に怒った徳川家康が3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、1万を越す兵力が健在であった島津軍と長期戦になれば外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、家康は態度を軟化せざるを得ず、島津討伐軍に撤退を命令した。
- 1602年、家康から島津本領を安堵される。
- 忠恒への家督譲渡が承認される。
- 大隈の加治木に隠居。若者達の教育に力を注ぐ。
- 1619年、同地にて死去。享年85。
島津義弘の父
島津 貴久(しまづ たかひさ)

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逸話
生涯
- 1514年、薩摩島津氏の分家、島津忠良の長男として生誕。この頃、島津氏は12代当主・忠治、13代当主・忠隆が早世し、14代当主・勝久は若年のため、宗家は弱体化していた。
- 1526年、勝久の養子となって島津本宗家の後継者となる。
- 1527年、勝久が隠居し、正式に家督を継承するも、薩州家当主・島津実久に攻められ、勝久との養子縁組を解消、守護職の悔返を宣言する。老中達との対立が深刻化。
- 1533年、日置郡南郷城の島津実久軍を破って初陣を上げる。
- 老中達が実久を迎え入れてクーデターを起こし、勝久を追放して実久を新しい本宗家当主・薩摩守護職に擁立する。
- 1536年、父・忠良とともに反攻を開始し、伊集院城を奪還。鹿児島に進撃、入城する。
- 1539年、紫原の決戦において実久方を打ち破り、鹿児島及び薩摩半島を平定して薩摩守護としての地位を確立するとともに、戦国大名として国主の座につく。
- 1541年、豊州家の島津忠広や肝付兼演・本田薫親ら13氏が共謀し、勝久の子・益房を擁して大隅・生別府を攻められるも、辛うじてこれを撃退する。
- 1545年、豊州家が貴久の保護を求めて従属する。
- 1549年、肝付兼演が降伏。本田薫親は一度は和睦して貴久の老中に取り立てられるも、朝廷に対して勝手に官位を申請したことを叛逆とみなし討伐・追放する。
- 1550年、鹿児島に内城を築いて戦国大名島津氏の本城とする。
- 1552年、歴代の島津氏本宗家当主が任官されていた修理大夫に任じられる。同年、実久の薩州家以外の島津氏一門・庶家から、守護である貴久を中心に「一味同心」することを盟約した起請文が作成される。貴久が勝久から守護職を譲られてから25年、薩摩の国主としての地位を確立してから13年にして、ようやく朝廷・室町幕府および島津氏一門のほとんどから守護として名実ともに認められたのである。
- 1553年、出水で抵抗を続けていた島津実久が病死。後を継いだ義虎に守護として認められる。
- 1554年、島津氏の軍門に降った加治木城主の肝付兼盛が大隅の蒲生範清・祁答院良重・入来院重朝・菱刈重豊らに攻められる。岩剣城を攻め返す。
- 1555年、帖佐平佐城を攻略。
- 1556年、松坂城を攻略。これにより貴久は西大隅を手中に治め、領土拡大の足掛かりにする。
- 1566年、剃髪して長子の義久に家督を譲り、伯囿と号して隠居する。
- 1571年、大隅の豪族である肝付氏との抗争の最中、加世田にて死去。享年58。
豊臣六大将・貫明公
島津 義久(しまづ よしひさ)

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主君 | |
拠点・知行 | |
官位・役職 | |
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法名 | |
別名 |
家族構成
父 | |
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母 | |
兄弟 | |
正室 | |
側室 | |
子 | |
親族 |
逸話
生涯
- 1533年、生誕
- 1554年、薩摩岩剣城にて初陣を飾る
- 1557年、蒲生家が降伏
- 1566年、父・貴久の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主になる
- 1569年、相良家、菱刈家が大口から撤退
- 1570年、東郷家、入来院家が降伏し、薩摩を統一
- 1572年、木崎原の戦いにおいて、日向の戦国大名・伊東義祐に勝利
- 1573年、禰寝家を従属させる
- 1574年、肝付家、伊地知家を従属させ、大隅を統一
- 1576年、伊東家の日向高原城を攻略して日向を統一し、三州統一
- 1578年、耳川の戦いにおいて、豊後守護・大友義鎮に勝利
- 1581年、相良家が降伏
- 1582年、有馬晴信の援軍要請に応え、肥前の戦国大名・龍造寺隆信の肥前千々石城を攻め落としたことで、有馬家が従属する
- 1584年、沖田畷の戦いにおいて、龍造寺隆信を初め、一門や重臣など3000余人を討ち取り勝利し、龍造寺家が軍門に降る
- 1585年、阿蘇合戦において、弟・島津義弘を総大将とした島津軍が阿蘇惟光を下し、肥後を平定する
- 1586年、豊臣秀吉からの「惣無事令」を無視し、大友家の勝尾城を攻め、筑紫広門を大善寺に幽閉する
- 同年、岩屋城の戦いにおいて、高橋紹運の守る筑前岩屋城を陥落させ、紹運を自害に追い込むも、島津軍も死者数千の損害を出す誤算となる
- 直後、筑前宝満山城も陥落させたが、岩屋城の損害のためにその後の侵攻を諦め撤退、その際、立花宗茂の追撃を受け筑前高鳥居城、筑前岩屋城・筑前宝満山城を、また幽閉先を脱出した筑紫広門に勝尾城を奪還される
- 同年、戸次川の戦いにおいて、大友軍の援軍として九州に上陸した長宗我部元親ら豊臣連合軍の先発隊に勝利する
- 1587年、根白坂の戦いにおいて、九州平定軍を相手に大敗を喫する
- 島津忠辰、伊集院忠棟、弟・島津家久らが相次いで降伏し、義久は鹿児島に戻り剃髪して名を龍伯と改め、川内の泰平寺で豊臣秀吉と会見し、正式に降伏する
- 1590年、豊臣秀吉から羽柴の苗字が与えられ、豊臣政権との折衝には羽柴の苗字と豊臣の本姓が与えられた島津義弘が務めることになる
- 1592年、朝鮮出兵に際し、重臣の一人梅北国兼の反乱などにより、島津家は軍役を十分に達成することが出来なかったことで、豊臣秀吉の不信を買い、秀吉から弟・島津歳久の首を要求され、義久は歳久に自害を命じる
- 1593年、朝鮮で跡取りの島津久保が病死したため、久保の弟の島津忠恒に義久の三女の亀寿を娶らせて後継者とする
- 1599年、島津忠恒が伊集院忠棟を惨殺したことに端を発する庄内の乱が起こる
- 1600年、関ケ原の戦いにおいて、京都にいた島津義弘は西軍に加担し、国元に援軍を要請するも、義久は動かなかった
- 義久は、西軍の小西行長の所領である肥後宇土城・肥後麦島城が加藤清正に包囲された際に、行長に援軍を送り清正と交戦している。また、相良軍と共同して清正の所領である肥後佐敷城に侵攻している
- 1602年、徳川家康との2年に渡って行われた講和交渉において、島津領国の安堵が確定した
- 同年、当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居する
- 1604年、大隈に国分城を築き移り住む
- 1611年、国分城にて病死、享年79
島津四兄弟
島津四兄弟とは、前述の島津義弘、島津義久と、以下に紹介する島津歳久、島津家久の四人を顕彰した呼称。
島津 歳久(しまづ としひさ)

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逸話
生涯
- 1537年、生誕
- 1554年、大隈岩剣城にて初陣を飾る
- 1555年、大隈北村城の戦いにおいて、重症を負う
- 1562年、北原兼正討伐の総大将を任じられ、薩摩横川城を攻め落とす
- 1563年、薩摩吉田城の城主を命じられ、以後18年間、44才になるまで吉田城主として過ごす
- 1575年、歌道伝習という名目のもと、情報収集のために上洛
- 1580年、薩摩虎居城の城主を命じられ、以後、12年間、虎居城主として過ごす
- 1587年、豊臣秀吉の九州征伐において、君主・島津義久、兄・島津義弘が秀吉に降伏した後も、歳久は最後まで抵抗を続けた
- 1592年、朝鮮出兵に際し、島津家重臣の一人である梅北国兼の反乱などで島津家は軍役を十分に達成することができなかった。この時、歳久は病気を理由に出陣しなかった。普段から豊臣秀吉に反抗的な態度を取り続けていたこともあり、歳久は秀吉の怒りを一手に買うことになる。
- 同年、豊臣秀吉の命により島津義久から追討軍が送られる。薩摩竜ヶ水にて捕捉され自害、享年56
島津 家久(しまづ いえひさ)

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逸話
生涯
- 1547年、生誕
- 1561年、大隅・肝付家との廻坂の戦いにおいて初陣を飾り、15才ながら敵将・工藤隠岐守を討ち取る
- 1569年、薩摩大口城にて136もの首級をあげる
- 1575年、上洛、島津家の安寧を祈願するため伊勢神宮へ参拝する
- 1584年、沖田畷の戦いにおいて、総大将として龍造寺軍に勝利、龍造寺隆信を討ち取る
- 日向佐土原城代になる
- 1586年、戸次川の戦いにおいて、大友軍の援軍として九州に上陸した長宗我部元親ら豊臣連合軍の先発隊を迎え撃ち、勝利を収める
- 1587年、佐土原城にて急死、享年41。病死とされている
島津義弘の息子
島津 久保(しまづ ひさやす)

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逸話
生涯
- 1573年、生誕
- 1587年、豊臣秀吉による九州征伐において、島津家が降伏した際に人質として上洛する
- 日向諸県郡を安堵される
- 1589年、島津家君主・島津義久の娘・亀寿を娶り、島津家の後継者となる
- 1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において、秀吉に随行し初陣を飾る
- 1593年、文禄の役に父・島津義弘と共に参陣、朝鮮国の唐島にて病死、享年21
島津 忠恒(しまづ ただつね)

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逸話
生涯
島津家の武将
新納 忠元(にいろ ただもと)

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逸話
生涯
上井 覚兼(うわい かくけん)

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逸話
生涯
伊集院 忠朗(いじゅういん ただあき)

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逸話
生涯
伊集院 忠倉(いじゅういん ただあお)

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逸話
生涯
伊集院 忠棟(いじゅういん ただむね)

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逸話
生涯
種子島 恵時(たねがしま しげとき)

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逸話
生涯
種子島 時堯(たねがしま ときたか)

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