今川 義元(いまがわ よしもと)
【1519年~1560年】
今川家第11代当主。今川氏親と中御門宣胤の娘(寿桂尼)の子。今川氏真の父。今川氏輝、彦五郎、玄広恵探の弟。武田信玄、北条氏康の義理の兄。正室は武田信虎の娘(定恵院)。通称は彦五郎。法名は栴岳承芳(せんがくしょうほう)。あだ名は海道一の弓取り。従四位下・治部大輔。駿河、遠江守護。
逸話
化粧をしたり、お歯黒をしているイメージが強いが、実際にしていたかどうかは定かではない。
義元は公家文化に精通していたが、和歌は下手だった。というより、今川家そのものの和歌のレベルが低かった。
生母は寿桂尼ではないかも知れない。
生涯
1519年、生誕。
1523年、善得寺に入れられ、琴渓承瞬に預けられる。
1529年、琴渓承瞬が没したため、太原雪斎が義元を引き継ぐ。雪斎とともに建仁寺で得度し、栴岳承芳と名乗る。
1536年、長兄の氏輝と彦五郎が同日に死去する。栴岳承芳は生母である寿桂尼の後押しで還俗させられ、将軍、足利義晴から偏諱を賜り義元と名乗ることとなり当主の座に就くべく準備を整える。しかし、重臣、福島正成が義元の兄の玄広恵探を擁立し対立。花倉の乱へと発展する。義元は北条家の後援を得て恵探派に勝利し、家督を相続する。
1537年、武田信虎の娘、定恵院を正室とし武田家と同盟を結ぶと、元来の盟友であった北条家は、武田家と敵対していたいたため、今川家を敵視。今川領に侵攻し、駿河の一部を占領する。
1540年、織田家からの侵攻を受け、敗北したとされる。
1545年、山内上杉家と結び、北条家を攻撃する。有利に戦いを進め、武田家が仲介し駿河を奪還する。武田家、北条家との関係が次第に和らぐようになる。
1548年、第二次小豆坂の戦い。三河で織田軍と激突し大勝する。松平家を従属させる。三河、尾張への侵攻を進める。
1553年、今川仮名目録に追加21箇条を加える。
1554年、甲相駿三国同盟を結成。
1555年、第二次川中島の戦いでは、武田家と長尾家の和睦を仲介する。
1558年、隠居し家督を氏真に譲る。
1560年、桶狭間の戦いでは、桶狭間山で休息中、織田家家臣、毛利良勝に討たれる。享年42。
がるの私見
がるはかなり好きな大名です。
信長の野望を買うと、最初はだいたいが今川家か三好家でプレイします。
徳川家がまるごと配下にいて、織田家もすぐに吸収できるので強い。
そしてそれらを束ねるだけの格式と器量が今川家と義元にはある。
義元に代わって上洛を果たす!最高です!
さて、戦国時代屈指の、イメージが先行している人物ですね。
このクラスの大名が、戦場で討ち取られるということはまずない(強いていえば龍造寺隆信くらいだろうか)ので、仕方ないのかも知れないが不憫なものである。
それでも、軟弱な公家風味のバカ大名というレッテルはかなり薄れてきたと思うので、なによりです。
桶狭間の戦いにしても、実際のところはどのような要素が重なってあんな結果になったのか、今となっては知る由もありませんが、通説とは全然かけ離れた実態ではないかと考えています。
この方、ある小説では、野犬に食い殺されてました(笑)。
当時の今川家というのは、権威と実力と風雅を兼ね備えた強力な勢力だったと思います。
配下の武将たちも、格の高そうな名前(朝比奈、鵜殿、葛山など)が多い。
よくある後継者争いの名称ですら「花倉の乱」と実に雅です。
桶狭間のミラクルがなければ、当然その後の信長もなく、そうなると、戦国時代というコンテンツが今現在において、ここまで人気が出たのかも怪しい。
しかし、太ってて馬にも乗れないとかいわれたり、その割には、討ち取られる寸前には敵兵を薙ぎ払ったり、印象の定まらない、謎の多い人物ですね。
その想像の余地の多いところが魅力的なわけですが。
伝わっている画像はどう見ても猛将。
今川 良真(いまがわ ながざね)
【1517年~1536年】
今川氏親と福島正成の娘の子。今川氏輝、彦五郎の弟。今川義元の兄。北条氏綱の甥。法名は玄広恵探(げんこうえたん)。
逸話
氏親の次男とされている彦五郎は弟という説がある。
生涯
1517年、生誕。早くから出家し、花倉の遍照光寺の住持となる。
1536年、花倉の乱にて、福島正成に擁立され、義元と争うが敗れ、普門寺で自刃。享年19。