尾州畠山家

尾州畠山家の家紋、足利二つ引。

尾州畠山家 びしゅうはたけやまけ

【家紋 足利二つ引】

畠山家はまず、大きく分けて桓武平氏系と清和源氏系があり、後者が奥州畠山家と金吾畠山家に別れ、金吾畠山家から別れて総州畠山家と尾州畠山家が興った。

鎌倉初期の著名な武将である畠山重忠は、桓武平氏系である。

清和源氏系畠山家は室町将軍足利家一門であり、一門の中でも別家扱いとされる斯波家に次いで高い序列を誇っており、細川家などの家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けていた。

畠山持国(徳本)が当主の時、応仁の乱の一因となる、持国の子の畠山義就と、持国の甥の畠山政長の間で激しい家督争いが起こり、この政長派が尾州畠山家である。

義就派である総州畠山家とは宿敵の間柄である。

尾州は政長の官位である尾張守から。

河内、紀伊、越中を拠点とし、高屋畠山家とも呼ばれる。

政長→尚順(政長嫡子)→稙長(尚順嫡子)と続く。

畠山 稙長(はたけやま たねなが)

【1504年~1545年】

尾州畠山家当主。畠山尚順の嫡子。通称は次郎。畠山長経、政国、晴煕は弟。尾張守。河内、紀伊、越中守護。

1504年、生誕。

1515年、元服。将軍足利義稙より偏諱を賜り稙長と名乗る。

1517年、家督相続。父の尚順が隠居、紀伊へ下向すると、稙長は在京し当主として活動を始める。将軍足利義稙、管領細川高国、分家の能登畠山家の畠山義元、義総親子との関係を強め、河内、大和の覇権をめぐって総州畠山家と抗争を繰り返す。

1534年、河内国守護代である遊佐長教と木沢長政が稙長の弟の畠山晴煕を擁立し下克上、紀伊に追放される。

1541年、長教と長政が仲違いし長政が反乱を起こすと、長教と和睦、紀伊の諸勢力とともに木沢長政を討ち、河内を取り返す。

1545年、河内の支配体制の強化に取り組む中、急死。

畠山 政国(はたけやま まさくに)

【不明~不明】

尾州畠山家当主名代。畠山尚順の子。別名は播磨入道。畠山高政、昭高の父。畠山稙長は兄。畠山長経、晴煕は弟。播磨守。河内、紀伊、越中守護。

生没年不明。

1545年、兄の死後、幕府の介入で能登畠山家の畠山晴俊が擁立されたが、家臣の反発によりすぐさま排除され、当主名代の立場となる。

1549年、守護代遊佐長教と対立し、出家し紀伊へ下る。嫡男、高政が当主となった。

1550年、没したと言われていたが、1552年に健在であった記録が存在する。

畠山 高政(はたけやま たかまさ)

【1527年または1531年~1576年】

尾州畠山家当主。畠山政国の嫡男。通称は治朗四郎、次郎四郎。号は一空。昭高は弟。尾張守。河内、紀伊守護。

1527年、または1531年生誕。

河内では守護代、遊佐長教に実権を握られていた。

1551年、長教が暗殺されるのを契機に翌々年、家督を継ぐ。

1558年、安見直政と対立し、高屋城を追放、堺に逃れる。

1559年、三好長慶と連合し高屋城を奪還、直政を追放する。

1560年、長慶と対立し直政と和睦するが、長慶の侵攻により高屋城は陥落、直政と共に没落、紀伊に下る。

1561年、紀伊勢を率い、細川晴之、六角義賢と共に京へ攻め上がり、長慶を京より追放。

1562年、久米田の戦いで長慶の弟、三好義賢を討ち取り高屋城を奪い返すが、同年、教興寺の戦いで敗北し河内より撤退し紀伊へ後退する。

1565年、家督を弟の昭高に譲る。

1568年、織田信長が上洛すると信長に従い在京し勢力増強に努める。

1573年、信長と将軍足利義昭が対立し、信長派の昭高が義昭派の遊佐信教に討たれる。

1575年、信長に高屋城を破却され河内を失う。放浪の後、翌年死去。

畠山 昭高(はたけやま あきたか)

【1545年~1573年】

尾州畠山家当主。畠山政国の子。通称は次郎四郎。はじめは政頼と名乗る。昭高として知られるが、正しくは秋高。足利義秋と、高政から一字ずつ貰っている。高政は兄。左衛門督。河内半国、紀伊守護。

1545年、生誕。

1560年、兄、高政を補佐し三好長慶と争うが敗北し紀伊へ逃れる。

1565年、兄より家督を譲られる。

1568年、信長政権に河内半国を安堵されたが、残り半国は敵対している三好義継のものとなる。

1571年、三好家が反乱、松永久秀と共に、畠山領に侵攻する。守護代遊佐信教が三好家と連携する気配を見せはじめる。

1573年、信教の侵攻を受け、自害に追い込まれる。

遊佐 長教(ゆさ ながのり)

【1491年~1551年】

畠山尚順、稙長、長経、弥九郎、稙長、政国家臣。遊佐順盛の子。遊佐信教の父。河内守。河内守護代。

遊佐家はもともとは出羽の有力国人領主で鎌倉時代末期に畠山家に仕えた。ゆえに各畠山家に一族が仕えている。

1491年生誕。

1493年、父の主君、畠山政長が自決した影響で、主君、尚順や父、順盛と共に紀伊へ逃れる。

1506年、尚順が河内を奪還すると、順盛もかつての居城、若江城に復帰する。

その後、稙長を補佐するが、稙長の弟たちを状況に応じて擁立し、細川家や総州畠山家と抗争を繰り返しながら、河内半国の守護代として権力を握る。

1541年、一方の河内半国の守護代、木沢長政を太平寺の戦いで討ち取り、河内守に任官される。

1551年、酒の席で酔って横になったところを、萱振賢継の刺客である時宗の僧、珠阿弥に刺殺された。

遊佐 信教(ゆさ のぶのり)

【1548年~1574年】

畠山高政家臣。遊佐長教の子。通称は新次郎。遊佐高教の父。河内守。河内守護代。

1548年生誕。

1551年に父、長教が萱振氏に暗殺されると、幼少の信教に代わり一族の遊佐太藤が遊佐家を纏める。

1560年、三好長慶による河内侵攻により高屋城は陥落。高政とその家臣の大半は追放される。

1568年、織田信長が上洛すると、畠山家の家督を受け継いだ高政の弟、畠山昭高は兄、高政と共に信長に従い、河内半国を安堵され、信教も高屋城に復帰する。

その後、信長と足利義昭が対立し、昭高、信教は義昭方に属するが、義昭が信長に降伏すると昭高は信長方に転じ信教と対立。

1573年、信教は昭高を殺害する。

1574年、信長に反攻をかけるが敗北、高屋城にて戦死する。

安見 直政(やすみ なおまさ)

【不明~不明】

木沢長政、細川晴元、畠山政国、高政、昭高家臣。一次資料では名は宗房。別名は与兵衛尉。美作守。

生没年不明。

1542年頃、木沢長政から細川晴元に転じ、その後、尾州畠山家に仕える。

1551年、遊佐長教が萱振賢継に暗殺されると、翌年賢継を茶会の席で暗殺し、続いて長教の弟も暗殺、遊佐太藤を擁立し自身の権力を構築していく。また高政を守護に担ぎ丹下盛知と共に家中での地位を確立した。以降は主、高政、昭高に従う。

1570年、幕府奉公衆に取り立てられる。

1577年頃までに没したと伝わる。

安見 信国(やすみのぶくに)

【不明~1571年】

畠山高政、三好長慶、畠山昭高、松永久秀家臣。信国は諱か。別名は右近。

安見直政と同族とみられる。

生年不明。

河内国交野郡に勢力を持ち、同所が三好氏の支配に代わるとその配下となった可能性がある。

1565年、三好家中の争いの中、久秀の配下となる。

1568年、織田信長が上洛すると主の久秀が信長に帰属すると、織田の重臣、佐久間信盛の娘を娶る。

「信長公記」では河内半国守護の畠山昭高、三好義継と並び称せられている。

1571年、久秀に謀反の嫌疑をかけられ切腹。織田家を裏切るつもりの久秀が、織田家に近い信国を排除する必要があったと考えられている。

丹下 盛知(たんげ もりとも)

【不明~不明】

畠山稙長、政国、高政家臣。はじめは平盛知と名乗る。通称は三郎左衛門尉。備中守。

大和国宇智郡に勢力を持ち、宇智郡国人一揆の盟主に推戴された家柄。

生没年不明。

1542年、稙長の河内奪還の際、三宝院快敏と共に主力として活躍する。

河内では奉行を務め、守護代と同等の形式の文書を発給できる家格を持ち、守護代である遊佐長教からも支配を受けることなく、同等程度の関係性であったとされる。

高政の家督継承には、盛知が力を尽くしたと見られている。

三宝院 快敏(さんぼういん かいびん)

【不明~不明】

畠山稙長、政国家臣。

紀伊の有力国人、隅田氏の出身とみられ、隅田氏は古参の畠山家内衆。

生没年不明。

1534年、稙長が紀伊に下った際に登用されたと思われる。快敏を登用することにより、稙長は高野山との関係を強めることができた。

1542年、稙長は、高野山、根来寺、粉河寺などの宗教勢力と共に河内に復帰。快敏は側近を務め、郡代もしくは小守護代の地位を得た。

稙長死後は、畠山政国に仕えた。

平 盛長(たいらもりなが)

【不明~不明】

畠山高政家臣、後に織田家、羽柴家に仕える。平芳知という。盛長は諱。通称は三郎左衛門尉。

生没年不明。

大和国宇智郡で郡代的、あるいは畠山家の奉行人という立場であったとされる。

高野山と関係が深かった。

尾州畠山家没落後は、織田信長、羽柴秀吉、羽柴秀次に仕える。

秀次が没すると、高野山に隠棲したという。

湯川 直光(ゆかわ なおみつ)

【不明~1562年】

湯川家当主。畠山高政派。湯川直春の父。宮内大輔。室町幕府奉公衆。

湯川家は甲斐源氏武田家の支流の出という。父の湯川光春の頃、紀伊の牟婁郡、有田郡、日高郡を領し、亀山城を築く。

生年不明。

1559年、紀伊へ下っていた高政と共に河内奪還を果たすと、高政より、畠山庶家で室町幕府奉公衆の家督を与えられる。これが原因で翌年、三好長慶の侵攻を受け、再度、高政は紀伊へと下るが、この時、将軍足利義輝の御内書により、高政からの出陣要請を断った。

1562年の久米田の戦いで高政に従軍し勝利するが、同年の教興寺の戦いにて戦死。家督は子の直春が継いだ。

湯川 直春(ゆかわ なおはる)

【不明~1586年】

湯川家当主。畠山高政派、後に織田、徳川派を経て羽柴派。湯川家当主。湯川直光の子。中務大輔。

生年不明。

1562年、父、直光は高政に従い、三好長慶と戦い戦死。家督を継ぐ。

1570年、織田家と三好三人衆が戦った際には織田家に加勢。

1584年、小牧長久手の戦いでは徳川家に加勢。

1585年、羽柴秀吉の紀州征伐で本領安堵を条件に秀吉と和睦。

1586年、死去。死因は病死とも羽柴秀長による毒殺とも言われる。